2026.6.3
とにかくヒリつきたい男〈新人賞界のバーサーカー〉ナオキ【新人賞コンプレックス 第2回】
記事が続きます
新人賞の選評は「減点要素」に注目すべし
新人賞でヒリつきたいという、私からするとよくわからないモチベーションで応募を続けるナオキであるが、過去に5年連続最終候補になった実績がある。彼に言わせれば「5年連続負けた」となるだろうが、新人賞最終候補の経験がない私からすれば大したモンである。
そんなナオキに新人賞について聞いてみたところ、「エンタメ新人賞の1次選考はふつうに勉強と対策をしていればふつうに通過します。そこで落ちるなら、その賞に対するリスペクトと本気さが足りません」とのたまった。1次選考で死ぬほど落ちた私は解せないが、「エンタメと純文学はゲームルールがかなり違いますから」と慰められた。なんでも純文学系新人賞に応募したことがないわけではないらしく、どうも何が評価されて何が評価されないのかがサッパリわからなかったようだ(つまり彼自身、その賞にリスペクトと本気さを満足に持てなかったというわけだ)。以降、彼はエンタメ系新人賞に絞ったらしい。
ナオキの新人賞攻略理論によれば、エンタメ系新人賞で大事なのは加点要素じゃなく減点要素である。余計なことをせず読める文章で適切に情報を出していくこと、物語全体の起承転結だけでなく、ワンシーン単位でミクロな起承転結も意識すること、存在感のあるキャラクターを作る……などの一般的な小説の書き方本に書いていることをひと通り習得すれば「読める」小説は書ける。ただ、この「読める」小説を書けるようになるのもわりと大変で、ナオキの場合、初心者の頃は1年間で短編1本書くのでやっとだったという。
彼の攻略法のなかでも個性が強く出ていたのが「選評の読み方」だ。多くの新人賞では受賞作の発表とともに各選考委員の最終選考についての選評が公開される。最終候補作はだいたい5作前後、受賞作は1〜2作が一般的だが、ナオキは選評で選考委員が高く評価した点は一切参考にしない。彼が精読するのは、選考委員が難色を示した部分だけだ。
「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし」とはプロ野球界の名将・野村克也の言葉だが、ナオキの創作論(というか新人賞攻略法)はほぼこれである。新人賞というゲームには少なからず「運」の要素があるが、そのほとんどが「読み手の好み」にあると彼は力説する。選評で選考委員が高評価をつけるとき、その根拠には彼/彼女らの関心など主観が強く反映される。それはお話の内容かもしれないし、文章のアプローチかもしれないし、現代社会と作品の距離かもしれないが、極論を言えばそうしたものは「ひとによる」。
たしかに筋は通っている。そして加点要素のアテにならなさは私もチラッと聞いたことがある。某賞では、作中に出てきた建物が「まるで私の家のようだ」という理由で受賞に推した選考委員がいて、また別の賞では主人公の職業について「私の若い頃を思い出す」という理由でその作品を推した選考委員がいたとかなんとか。もちろん、これらは極端な例だしどこまで本当かもよくわからない話ではあるけれど、人間の評価とは言って仕舞えば所詮こんなモンなのである。良いと思ったから良い、というのは、理不尽でありつつも芸術鑑賞の醍醐味でさえある。
ともあれ、加点要素の研究は確実性が低い。最終選考のみに照準を絞るなら加点ポイントの研究は活きるかもしれないが、それは戦略として「ラッキーパンチ狙い」でしかないのである。予選を通過して最終選考に残るためには、ディフェンスをしっかりしなければならない。
そこで彼は「減点要素」に目を向けたのだった。
加点については選考委員の主観が大きく影響する反面、減点要素はほとんどの場合、具体的な部分を挙げて技術的な観点から指摘され、そしてそれはだいたい意見が一致する。
「麻雀で例えるなら、」と彼は語った。「結局アガれるかどうかはツモ次第ですが、牌効率を考慮して流れを読むくらいの準備をしておくべき──いやむしろそれくらいしかできることがないんですよ。新人賞は連勝しなくていいのです。一度勝てば攻略したことになるのですから」
記事が続きます
「小説家になりたくて新人賞に応募する」など邪道
新人賞応募者は目についた賞すべてに応募する「乱れ打ち派」と1作に全集中する「一球入魂派」に分かれるが、ナオキは後者である。ふつうに本職が忙しいのもあるし、まだ子どもが小さく時間がとりにくいのもあるが、やはり一番の理由は「ヒリヒリしたい」からとのこと。乱れ打ちだとヒリつきの純度が落ちるらしく、1年かけて1作を用意し(初稿に半年、改稿に半年)、それが最終に残ることこそが最高の新人賞エンターテイメントなんだと彼は主張する。やはりなにを言っているのかイマイチわからないが、一点張りの大勝負でしかヒリつけない彼の趣味がギャンブルじゃなくて本当によかったとは思う。下手したら一家離散の憂き目に遭っていただろう。
実は私はナオキに一度負けたことがある。
まだ新人賞に応募していたとき──そしてまだ我々は知り合っていなかった──、同じ賞で私が1次通過、ナオキが最終候補だった。デビュー後、私がそのことを話すと、「私が大滝さんに勝つのは当然ですよ」と即答された。
「だって大滝さんは小説家になりたくて新人賞に応募していたのでしょう? 私は新人賞を獲りたくて新人賞に応募しているんですから」
覚悟が違うんです、という一言で彼はこの話を締めた。
前回も説明した通り、新人賞とは「小説家の登竜門」であり、実質的な原稿持ち込みの場だった。自分の小説を流通させるため、文章で飯を食っていくために通過すべきハードルだ。「小説家になるために新人賞に応募する」というのは私のなかで疑う余地などない大前提だった。
「小説家になりたくて新人賞に応募するなんて邪道ですよ」
ナオキのこの一言に、アッ、コイツには常識が通用せんわ、と確信した。マジモンのバーサーカーである。彼にとって新人賞とは「新人賞」というゲームなのであり、彼自身、自分のことをそのゲームのプレイヤーだと考えているらしい。
新人賞の勝者が得るのは新人賞を制したという名誉である。デビューできるとか自分の小説が本になるとか、そういうものはナオキにとって単なる副賞でしかないわけで、「小説家の登竜門」という認識自体がそもそもおかしいというのだ。
彼の話を聞きながら、私はむかし懐かしの玩具つきお菓子を思い出していた。オマケである玩具が欲しくてそれを買い、本来メインであるお菓子をいらないから友だちに全部あげちゃう奴がいた。新人賞に応募する小説家志望者とは、ナオキにしてみればそんな奴らなのだろう。デビューとか書籍化とか、そうしたオマケに目が眩んだ邪な連中なのだ。
じゃあ新人賞を獲ってもデビューしないの? と聞いてみると、そんな先のことはわかりませんよ、と無駄にハードボイルドなことを言い出した。いまそんなことを考えても取らぬ狸の皮算用でしかないとのことである。
倒錯した価値観を持っているナオキだが、小説家志望者の新人賞応募作の相談にも熱心に乗っている。新人賞に対してピュアさが昂じてか、ネタだしから梗概の作成、実作の試し読みに至るまでサポートは手厚く、実際にそれで成果を出した者もいる。
そんな彼が小説家志望者にアドバイスをしているところに居合わせたことがあるのだが、そのとき彼はこう言っていた──
「あなたの弱点は小説を書きたい気持ちより、小説家になりたい気持ちの方が強いところです。そんなんじゃダメですよ。ちゃんと小説を書かないと。新人賞を取るとか以前の問題です」
はっきり言って、新人賞を獲りたくて小説を書いているという彼は私からしたら邪道だ。しかし彼を見ていると、王道だろうが邪道だろうが、どんな道でも極めた先には同じ真理があるのではないかと思わずにはいられない。
次回連載第3回は7/1(水)公開予定です。
記事が続きます
![[1日5分で、明日は変わる]よみタイ公式アカウント](https://yomitai.jp/wp-content/themes/yomitai/common/images/content-social-title.png?v2)
















