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加門七海「着物憑き」
あの世とこの世のあわい。
幼いころからそれを感じ取る加門氏は、
ここ数年で、着物を身にまとう機会が増えた。
それは「夢中」を通り越し、まるでなにかに
「取り憑かれた」かのように……。
着物をめぐる、怪しく不思議なエッセイ。

薄物(一)

 先日、友人から恐ろしい話を聞いた。

 彼女の家には、祖母が若い頃に着た美しい振袖が残っていた。
 私とその友人はかれこれ三十年近い親交があり、出会って数年経った頃、私はその振袖を見せてもらったことがある。
 お祖母ばあ様の年齢を考えると、大正から昭和初期の物だろう。本当に娘らしい、良家の子女が着るに相応ふさわしいものだった。
 当時はまだ着物に詳しくなかったが、現代の物には及びもつかない質の良さと、大胆でありながら古典的でせいな図柄が強く印象に残ったものだ。
 保存状態も抜群だった。ゆえに友人は成人式のとき、その振袖を身に着けた。彼女の妹もそれを着た。もしかすると、彼女の母親も同じ振袖を着たのかもしれない。
 一生に一度の晴れの日に、お古は嫌だと言う人もいるかもしれない。が、その振袖の素晴らしさは浅慮をとどめるのに充分だった。彼女の周囲の人間も、振袖の美しさは知っていた。
 やがて、祖母が亡くなった。
 葬儀の慌ただしさが落ち着いて遺品の整理をしたところ、彼女はくだんの振袖が見当たらないことに気がついた。
 周囲に訊くと、父の妹が持っていってしまったという。
 振袖の所有者は母方の祖母だ。親の形見とも言い難い上に、遺族に黙って持っていくとは窃盗に等しい行為と言えよう。
 友人は当然、返却を迫った。しかし、叔母は返さなかった。
 叔母には娘が三人いた。そのために振袖が欲しかったのだ。とはいえ、正当性はない。折ある毎に友人は振袖のことを口に出したが、相手は言を左右にするばかりだった。娘より年下の友人を侮っていたに違いない。
 そんなことが続いて数年、遂に友人は激怒した。のまま事を収めようとする叔母に、彼女はこう怒鳴ったのだ。
「もういい。あんたたちは一生振袖着てろ!」
 そのひと言で、振袖の所有権は叔母に移った。友人は振袖を諦めた。しかし、それから四半世紀経ってのち――つい最近、叔母は振袖を返却してきたという。
「今更、どうして返してきたの?」
 私は尋ねた。
「さあ、知らない。けど、もう娘たちも五十を過ぎたから、振袖なんか着られないでしょ」
 澄ました顔で言って、友人は続けた。
「結局、叔母の娘たちは誰も結婚していなかったし」
「え?」
「そうなのよ。みんな独身だったの。ところが、面白いことに振袖を返して半年も経たないうちに、その五十過ぎの娘たちの結婚がバタバタ決まったのよね」
 くすくす笑う彼女を前に、私は言葉を失った。
 そうか。
 一生振袖着てろというのは、一生独身でいろということだ。
 友人は知ってか知らずか、非礼な叔母一家に完璧な呪いの言葉を放っていたのだ。
 ――これは着物の怪談というより、ことだまによる呪詛かもしれない。いや、振袖が呪いのよりしろならば、やはり着物の怪異となろうか。
 最近の言葉で言うならば、この友人は霊感体質だ。しかし、多分、この一件は彼女の資質とは関係ない。言葉を放ったその瞬間、友人が娘三人の未婚を願ったわけではあるまい。
 鋭い感情の一撃を放つことは誰にでもある。ただ、その媒体となったのが未婚女性の象徴である振袖だったことにより、感情は呪いとなったのだ。
(時が経つうち、叔母さんは気づいたのかもしれないな)
 そして、友人も気がついた。
 ふたりが確信すればするほど、振袖は呪物の凄みを帯びる。だからこそ、その返却により、呪いは容易に解けたのだ。
 着物は体を包む着衣だ。
 呪われた物で身を包むのは呪いを纏うことと同じだ。もちろん愛情の籠もったころもを纏えば、その人物は加護を受けよう。けれども、その「出自」や「質」を我々はなかなか見抜けない。ゆえに、アンティークやリサイクル着物を敬遠する人が出てくるわけだ。
 私はそれらを愛しているが、それでもすべてを許容できるわけではない。
古着」の回で記したごとく、所有者以外の着用を許さないような着物もある。見極めることは難しい。が、半月ほど前、知人から「怖いアンティーク着物って、どこが怖いの?」と尋ねられ、改めて考える機会を得た。
「多分、糸だね」
 そのとき、私はそう返答した。
 今はプレタポルテの着物も多く、ミシン縫いもある。しかし、昔の着物はすべて手縫い。すべておあつらえだった。
 着物は本来、反物で求める。それを着る人それぞれの寸法に合わせて縫製するのだ。
 どんな反物であろうとも、最初はたったひとりのためにはさみを入れられるのだ。そして、時として所有者や家族自ら針を持ち、着物という形に仕立てる。
 お誂えとはそういう物だ。ゆえに未着用の品であっても、リサイクル着物は廉価となる。反物を着物に仕立てた瞬間、誰かの「お古」となるからだ。
 思い返してみれば、私はアンティーク着物のほとんど……いや、すべてを直したり、洗い張りに出してから着用している。
 現実的には、それは寸法へのこだわりとなる。だが、その奥には過去の所有者の手から離れたいという気持ちが潜んでいる。
 そのために、一部でもいいから糸を替える。糸を替えることによって、誰かのために縫われた着物を完全に自分の物にして、過去の人にも着物自身にも、ある種の諦めを促しているのだ。
 もっともこんなことを思うのは、自分の性格ゆえだろう。神経質、潔癖症、あるいは臆病。そそっかしいところがあるからこそ、色々慎重に考える。
 だが、着物にしろ何にしろ、こだわりというのは人様々だ。私が気にしないことを強く意識する人もいるし、その逆もあるのが当然だ。
 古い物すべてが嫌いな人もいれば、どんな物でも気にせず纏う人もいる。平たく言えば、それが個性だ。アンティークだからといって、私のように、あれこれ気を回さねばならぬということはない。
 けれども、ただひとつ――昔からアンティークに惹かれた私が言えるのは、自分の「個性」が理由もなく、ぶれたときは注意しろ、ということだ。
 急にアンティークが嫌になったり、逆に突然、好きになったり。またはまったく自分の趣味ではない物を突然、欲したとき。
 着物に限った話ではない。
 そういうときは、何かがあるのだ。

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加門七海

かもん・ななみ●東京都生まれ。多摩美術大学院修了。学芸員として美術館に勤務。1992年『人丸調伏令』で小説家デビュー。日本古来の呪術・風水・民俗学などに造詣が深く、小説やエッセイなどさまざまな分野で活躍している。ひとり百物語を特技とするほど、豊富な心霊体験を持つ。また、オカルト・ルポルタージュでも注目を集めている。著書にエッセイ『うわさの神仏』『うわさの人物』『猫怪々』『お祓い日和 その作法と実践』『鍛える聖地』『大江戸魔方陣』『もののけ物語』『たてもの怪談』、小説に『祝山』『目嚢』など多数。

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