よみタイ

加門七海「着物憑き」
あの世とこの世のあわい。
幼いころからそれを感じ取る加門氏は、
ここ数年で、着物を身にまとう機会が増えた。
それは「夢中」を通り越し、まるでなにかに
「取り憑かれた」かのように……。
着物をめぐる、怪しく不思議なエッセイ。

帷子かたびら(三)

 これが帷子ノ辻に残る伝説だ。
 九相図とは死後、肉体が禽獣の餌となり、腐乱、白骨化するまでを九つの段階に分けて描いた仏教絵画だ。
 私の知る限り「九相図」に描かれるのは美女と決まっている。
 ゆえに、檀林皇后以外では小野小町がよく題材として選ばれている。皇后は自ら望んだが、小野小町には不本意なのではなかろうか。
 のみならず、実は私、この檀林皇后伝説には納得できないことがある。
 皇后が亡くなったのは、数えで六十五歳のときだ。「九相図」では死に際も美女のままで描かれているが、当時なら既に老境だ。皇后はその死の間際まで、自分の美貌を意識していたというのだろうか。
 小野小町も美女からの九相を描かれるが、小町は教化の題材とされてしまっただけだ。しかし、檀林皇后は自分の遺言としたという。
 これが本当だとすれば、ちょっと厚かましいと言わざるを得まい。なので、皇后がもし本当に死体遺棄を指示したのなら、もっとシンプルな諸行無常の諭しだったのではなかろうか。
 しかし、それもよく考えると腑に落ちない。
 当時、死体はごろごろしていた。
 京都には化野あだしの鳥辺野とりべの蓮台野れんだいのに風葬の地があり、川原などにも庶民の死体は捨てられていた。
 死体のみではない。そこには助かる見込みのない傷病人も、うち捨てられてしまったという。ゆえに積極的に観察することはないまでも、死の前後から白骨化までを目にするのは珍しいことではなかったのだ。
 だから、皇后の意図がシンプルに死と諸行無常を結びつけたものだとしても、普段、遺体に接しない皇族ならではのものとなり、これまた相当な世間知らずということになる。
 ただ、庶民にとって、貴人の亡骸を見ることは珍しかったに違いない。そして、その変容を見て気づくことがあるとするなら、死の様に貴賤上下の別はなく、皆同じだということだったのではなかろうか。
 皇后の意図がそこにあったなら、私は納得できるのだけど……。
 檀林皇后はナルシスティックな世間知らずだったのか。はたまた、遺った人が当人の意図を勝手に書き換えたのか。
 それはわからないけれど「檀林皇后九相図」の詩書には、気味の悪い話がつけ加えられている。
 曰く「皇后の亡骸を捨てて以降、折々に女性の死骸が犬や鳥に食われている様が見える」。
 このエピソードは怪談として解釈する説と、皇后に倣って女性の死体を辻に棄てるのが流行ったとする説のふたつに分かれる。
 江戸時代の地図、『増補再板京大絵図』には太秦の西に紐の両端を裂いたような十字路があり、そこに帷子ノ辻と記されている。
 左右には丘陵が描かれているのみなので、人家があるようには見えない。道の両脇に草木があれば、死体が棄てられてもそんなには目立たなかったに違いない。そして、暗く人気ひとけのない辻に、幽霊が出ても不思議ではなかろう。
 現場は今「帷子ノ辻」と名が付いている交差点より、もうひとつ西の信号、奇しくも斎場が建っている変形五叉路の辺りが該当する。
 そこから西に向かっていくと、古より葬送の地だった化野に出る。
 途中、檀林寺という名の寺院があるが、ここは近代に建てられた寺だ。皇后が建立した檀林寺は没後急速に衰えて、平安中期に廃絶。今は天龍寺となっているので、お間違いのなきように。
 また「檀林皇后九相図」は現在、西福寺に蔵されている。
 西福寺は、あの世とこの世の境とされる六道の辻のそばにある。
 六道とは天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道を指し、仏教的なごうの結果として輪廻転生する世界のことだ。
 辻という場所自体、あの世とこの世の境、あるいは異界に近いとされる。実際、その名に六道を持つ辻は京都に限らず六叉路だ。地獄極楽はすぐ隣にある。
 そんな場所ゆえに、西福寺の近くには盆の迎え鐘と小野篁冥府通いの井戸で有名な六道珍皇寺や、子育て幽霊に所縁を持つ「幽霊飴」の店などが並んでいるのだ。
 六道の辻の東には、やはり葬送地である鳥辺野が広がる。
 帷子ノ辻の西は化野。
 檀林皇后の時代、辻は既にあったのだから、もしかすると、この辻は皇后の逸話以前から六道の辻同様の機能を持っていたのかもしれない。
 そして皇后の死を受けて、女性の亡骸を風葬にする場と変化したのではなかろうか。
 私がこの辻を意識して、初めてその場に立ったのは、もう三十年近く前になる。多分、広隆寺参拝の帰りだろう。
 東京とは趣の異なる町並を駅に向かっていくと、やがて広場を抱えたような妙な形の交差点に行き当たる。信号の先には線路が横切っていて、信号の手前には空き地があった。
 細長い三角形をしたその空き地は使い勝手が悪いのか長年手つかずの様相で、痩せた木が数本生えていた。
(この辺りが帷子ノ辻か)
 往事の風情を残すため、ここは空き地になっているのか。私はそんなことを思って、道から外れて中に入った。
 冬だったので、下草はほぼ生えていなかった。しかし木の枝にはまだ葉が残っている。常緑樹だったのかもしれない。
 そのせいか、空き地はひと色、道路よりもほの暗い。
 ぐるりとひとまわり歩いてみたが、ここが帷子ノ辻だという碑も説明板も見当たらなかった。
 ただひとつ。
 今でも鮮明に憶えているのは、手の届かないような高い枝から汚れた長い紐が下がっていて、その先端に、栗の実ほどの錆びた鈴が結わえ付けられていたことだ。
 風が吹いたら、鳴るのだろうか。
 しばし鈴を見上げていたが、段々薄気味悪くなってきて、私は小走りになって、日の当たる三条通りに戻った。
 そのときの話はそれだけだ。
 しかし、その後、何度帷子ノ辻を通っても、空き地を目にすることはなかった。
 今回の原稿を記しているうち、改めて気になったので、私は地図やらストリートビューやらで往事の記憶を辿ってみた。
 どうも、空き地だったところは斎場になっているようだ。
 なるほどね、と納得しかけて斎場のサイトを確認する。と、会社概要には、当地にて昭和二十七年より創業とあった。
 私はまだ生まれていない。
 ならば、私が見た風景は――錆びた鈴を見つめた記憶は一体、どこから来たのだろうか。

 檀林皇后の伝説も私的な記憶も腑に落ちないので、長く語ってしまったが、帷子ノ辻という名称は、一般には皇后の経帷子、即ち死装束に因んだ名と説明されている。
 が、これにもまた異説があり、そちらでは棺を覆った帷子が辻の辺りで風に飛ばされ、舞い落ちたことを由来としている。
 当時の死装束が如何なるものであったのか、生憎、はっきりとはわからない。けど、棺に掛けられていたというなら、死装束ではないだろう。
 棺を覆った着物というなら、皇后が生前身につけた艶やかな帷子ではなかったか。
 皇后が亡くなったのは嘉祥三年五月四日、西暦では六月十七日となる。まさに初夏、単衣の季節だ。
 辛気くさい話が続いたので、私はそう解釈しておきたい。

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加門七海

かもん・ななみ●東京都生まれ。多摩美術大学院修了。学芸員として美術館に勤務。1992年『人丸調伏令』で小説家デビュー。日本古来の呪術・風水・民俗学などに造詣が深く、小説やエッセイなどさまざまな分野で活躍している。ひとり百物語を特技とするほど、豊富な心霊体験を持つ。また、オカルト・ルポルタージュでも注目を集めている。著書にエッセイ『うわさの神仏』『うわさの人物』『猫怪々』『お祓い日和 その作法と実践』『鍛える聖地』『大江戸魔方陣』『もののけ物語』『たてもの怪談』、小説に『祝山』『目嚢』など多数。

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