よみタイ

加門七海「着物憑き」
あの世とこの世のあわい。
幼いころからそれを感じ取る加門氏は、
ここ数年で、着物を身にまとう機会が増えた。
それは「夢中」を通り越し、まるでなにかに
「取り憑かれた」かのように……。
着物をめぐる、怪しく不思議なエッセイ。

帯(四)

 二代龍村平藏の話をしよう。
『錦とボロの話』『錦 光を織る』を参考にして述べていきたい。
 二代目平藏は法隆寺に伝わる「四天王獅猟文様錦してんのうししかりもんようにしき」を復原している。
 この錦はフェノロサや岡倉天心などの手によって法隆寺夢殿の扉が開けられたとき、秘仏「救世観音」の脇に立てかけられていた一巻の織物だ。
 法隆寺では、この織物を聖徳太子が物部守屋を征伐した時に用いた錦の御旗と伝えている。
 大きさは幅百五十二センチ強。しかも両端が揃ってないので、実際はそれ以上の幅を持つ稀に見る織物だったらしい。
 フェノロサ一行は、この錦の文様がササン朝ペルシャのものであることを指摘して、東西文化交流のひとつの証拠とした上で、ササン朝の錦を中国が模造したものだと考えた。
 しかし、裂の復原を果たした二代目平藏は、自著の中でそれ以上のことを述べている。
 彼はササン朝の古いコインに刻された人物の特徴を調査して、錦に織られている人物をコスロー二世と断定する。
 そして当時の染色技術や貿易状況を鑑みて、この錦が日本に渡ってくるまでの経緯を推測しているのだ。
 コスロー二世在世時、中国は隋・煬帝の時代だ。
 煬帝が西域諸国と交流し、それらの国の人々を歓待したのが六〇九年前後。日本から遣隋使が入った年でもある。
 二代目平藏は当時のペルシャには絹糸が豊富になかったこと、中国は絹糸だけを輸出することはなく、布にして交易をしていた史実を指摘する。そしてそこから、コスロー二世は自分の肖像画入りの広幅錦を、直接もしくは仲介者を立てて、随に注文したのではないかと考えたのだ。
 肖像及び図案を手に入れた隋は、最高級の技術をもって布を織ったに違いない。
 こういう大きな仕事のときは、予備や手元の保管品として、同じ物を余分に作っておくのはよくあることだ。
 そのうちの一枚が、丁度同時期に日本から来た遣隋使、小野妹子に送られたのではあるまいか。
 とすれば、錦が聖徳太子の手元に届いた可能性はある。経錦が隋のものだったと断定することも可能になる。
 ――以上が、二代目平藏の推理だ。
 当時は、今のように簡単にインターネットで検索はできない。すべて書物と現物に当たるしかないのだ。
 道明新兵衛も同じだが、彼らは紐一本、布一枚の復原から、その時代の様子までありありと蘇らせてしまうのだ。
 二代目には、さらに興味深い話がある。
 明治から大正時代に移った一九一二年。
 西本願寺の大谷光瑞こうずい門主によって計画された大谷探検隊が、中央アジアトルファン盆地のオアシス国家である高昌こうしょう国の遺跡、アスターナ古墳群を発掘した。
 このとき、高昌国王麹伯雅きくはくがの墳墓から発見された錦の断片は、日本に持ち帰られた。その復原を委ねられたのが、二代龍村平藏だ。
 布はミイラの面覆いであり、目と口に当たる部分などが欠けた断片だった。
 少し詳しく記すなら、錦の裂は人の顔の形に切り取られた縦二十四センチ、横十五センチの楕円形で、中央に鹿と樹木を描いたササン朝ペルシャ特有の文様が二色を用いて織り出されている。
 太い外輪円文の中に円文が五つ、方形の入子枡正方形が上下左右に見え、左上隅にギリシャのアーカンサス十字唐草が四分の一より少し欠けた状態で見えている。
 特色は、中央樹木の下に「花樹対鹿」という漢字が左右対称に織り出されていること。その特徴から、裂は「花樹対鹿錦かじゅたいろくにしき」と名付けられた。
 二代目平藏はこの錦を目にしたとき、既に復原を果たしていた「四天王獅猟文様錦」と酷似していることにすぐ気がついた。そして織物技術上、極めて高級な品質のものであることも理解した。
 復原にあたっては、使用されている絹糸と同品種の糸を得るため、交配させた蚕を養蚕農家に育ててもらうところから始めるほどの徹底ぶりだった。
 その過程はNHKでドキュメンタリー「幻の錦」として制作され、昭和四十三年(一九六八)に放映された。大反響を呼んだ番組は、後にモンテカルロ映画祭のドキュメンタリー部門で金賞を受賞することになる。
 記してしまえば、数行で終わる話だが、「花樹対鹿錦」の復原は五年がかりの大仕事だった。
 五年もの間、二代目平藏の頭の中には、寝ても覚めても錦のことがちらついていたに違いない。他の事をしていても、頭の隅にはいつも錦の断片が置かれてあったと想像できる。
 何にしろ、残っているのは穴の空いた端布一枚だ。そこからすべてを復原するには、穴によって失われた文様を補わなければならないのだ。
 当初は「四天王獅猟文様錦」を参考に仕事を進めていた二代目だが、無から有を生む作業は進まない。
 数年後、彼は完全に行き詰まってしまった。
 すると……ある晩、二代目の夢枕にトルファンのミイラが現れたのだ。
 ミイラは二メートル近い巨人の姿であったという。
「その顔は飾りでおおわれていた。その眼の跡、口の跡から 血がにじみていて、そこが錦の腐敗しているところだとわかった。その夢で私はめざめたが、ぞっとして寝られなかった。その夢の巨人は 隋の煬帝とともに南満州の野に騎馬隊をひきいて転戦した高昌国人で、この錦を通じてなにかを物語っているようであった。」
 この夢によって、二代目は「花樹対鹿錦」が法隆寺の錦同様、隋のものであることを確信する。
 しかし、それでも、欠けた箇所は如何ともすることができない。
 時は徒に流れて、また数年。彼の夢の中に再び、かのミイラが出現する。
「ミイラは『何故あの花樹という文字を考えないか!』と叱咤する。その声に驚いて目覚めた私は、空白の所へ夢中で花すなわち牡丹を画きこんだ。この欠所の牡丹図は私の創作で、あるいは正しくないかもしれない。その形容の点でも昔のとおりでないかもしれない。しかしまがりなりにもその夜、空白部分の織文(織り文様)ができあがったのである。」
 ――二代目平藏が描いた牡丹は、錦に織り出されていた文様そのものに違いない。
 合理的な解釈をすれば、思いつめた彼の無意識が、夢の中で回答を導き出したと言えるだろう。
 だが、私はそうは思わない。
 二代目はきっと裂を通して、高昌国王麹伯雅と対面したのだ。
 そして直接、その持ち主から穴の空いた経緯と、欠けた文様を教えてもらったのだろう。

 なんだか帯の話から随分ずれてしまったが、この話を知って以来、私は龍村の帯とは「そういう人々」が作り出したのだと意識するようになった。
 龍村美術織物は、今でもタペストリーや古裂の復原に力を入れている。だが、その本領はやはり帯にある。
 初代龍村平藏も、美しく、誰にも真似の出来ない帯を織るため、「歴史に残る名品に学ん」だのだ。
 その成果は最終的に、帯を締める女性たちのところに辿り着く。古代から伝わる美を女性たちに渡すため、龍村平藏は生きたのだ。
 龍村のみに限らない。
 帯も着物も、その文様のほとんどは、古から伝わる意匠と技法に基づいている。
 たとえば縞、たとえば更紗。
 それらひとつひとつが日本に入ってくるまでの長い道のりと時間とを、着物好きは纏うのだ。
 もしかすると、その源には長身のミイラの王や聖徳太子、随の煬帝の面影が漂っているのかも知れない。そして、密かに我々に語りかける機会を窺っているのだ。
 想像すると、私はますます着物が愛しくなるのだけれど……そんな怖いことを言うなら、着物は着たくないという人も出てきそうだから、あまり強くは言わずにおこう。

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加門七海

かもん・ななみ●東京都生まれ。多摩美術大学院修了。学芸員として美術館に勤務。1992年『人丸調伏令』で小説家デビュー。日本古来の呪術・風水・民俗学などに造詣が深く、小説やエッセイなどさまざまな分野で活躍している。ひとり百物語を特技とするほど、豊富な心霊体験を持つ。また、オカルト・ルポルタージュでも注目を集めている。著書にエッセイ『うわさの神仏』『うわさの人物』『猫怪々』『お祓い日和 その作法と実践』『鍛える聖地』『大江戸魔方陣』『もののけ物語』『たてもの怪談』、小説に『祝山』『目嚢』など多数。

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