幼いころからそれを感じ取る加門氏は、
ここ数年で、着物を身にまとう機会が増えた。
それは「夢中」を通り越し、まるでなにかに
「取り憑かれた」かのように……。
着物をめぐる、怪しく不思議なエッセイ。
2018.11.19
振袖(一)
帯留めひとつに引かされて着物を着ようと決意して、私はまず実家の簞笥から自分の着物を持ち出した。
母は着道楽でもあった。
帯や着物、どれほどの数があるかは知らない。が、自分のついでに娘にも、と仕立てた呉服は、決して少ない数ではなかった。
そっと開いた簞笥の中には、長着に長襦袢、帯はもちろん、道中着、道行、雨ゴートまでが揃っている。
ありがたい親心だ。が、それを普通に取り出して、もう一度着付けを習いたいなどと言ったが最後、またも母にこづきまわされ、気持ちが萎えてしまうだろう。
ゆえに母の目を盗み、私は紙袋に着物を詰めた。
自分の物なのは確かだが、お金を出した憶えがないため、少しばかり後ろめたい。だが、ひとりで着付けを覚えるためには、多分、これが最善策だ。
私は紙袋を提げて、そそくさとマンションに戻っていった。
練習用に持ってきたのは、二十代に着た派手な小紋だ。
生地は重みのある縮緬。
よく聞くのは、初心者は浴衣からとか、紬が楽だといった言葉だ。だが、母の言い分は逆だった。
「本当にきちんと着られるようになりたいのなら、柔らかくて重い、着崩れしやすい着物から始めなさい」
その形が決まるようになったなら、紬なんか簡単だ、と。
スパルタ教育ではあるが、母の言葉が間違いだとは思っていない。ゆえに、私は縮緬の小紋を家から持ってきた。
しかし、袖を通そうとして着物を広げ、私は愕然とした。
半襟がない。足袋がない。帯締めも忘れた。着付け小物はガサッと摑んで運んできたが、紐が足りない。裾除けがない。補正具はいるのか、いらないのか。何より、広げてしまったこの着物、
(どうやって畳んだらいいんだ……?)
呉服屋はもちろん、着物好きの中には、もっと着る人を増やしたいと熱望している人が多くいる。
それが思うに任せないのは、金銭的な問題や呉服屋の入りづらさに加え、初期装備が多すぎるという理由もあるに違いない。
何もない状態から着物を着ようとすることは、一から登山用品を揃えて、富士山に挑もうとすることと、さして変わりのないことなのだ。
いや、登山用品は一度揃えれば何年も使える。けれど、着物はそうはいかない。
着た切り雀にならぬため、帯を替えたい、着物を替えたい、袷、単衣、薄物、浴衣。春と秋では異なった物を身につけたい……。
そんなことを考え始めたら、全くもってきりがない。
富士登山は装備に加えて体力・気力が必要だけど、着物は一式揃えたその後は、ただひたすらの経済力勝負となる。
これでは着物人口が増えるはずはない。多分、私も一から揃える立場だったら、とっくに諦めている。
そうならずに済んだのは、どんなに文句を言おうとも、やはり母のお陰である。
ともあれ、半端な小物と広げた着物を前にして、私はしばし途方にくれた。
けれども、今は幸いにしてインターネットというものがある。
私は知識と道具とをパソコンの中から拾い上げると、それらが整うのを待って、改めて着物に挑戦した。
着付け教室に通う選択は、端から頭の中になかった。
誰かに教わるのはもうこりごりだ。
しかし、ひとりで着てみると、できないことが沢山あった。その一方、おはしょりの綺麗な処理の仕方や帯の位置など、母から習った細かいコツはしっかり頭に残っていた。
そのコツを活かせるようになるまでの苦労話は……やめておこう。
ただ、なんとかまともに着付けができるようになってのち、私はなぜ母があそこまで口煩かったのか、理解ができた。
襟の合わせ方や衣紋の抜き方、帯の位置や帯揚げの分量、それらはミリ単位の差や僅かな角度で、容易に表情を変えるのだ。
清楚になるのも婀娜になるのも、いけすかない感じも老けるのも、印象はすべて着付け次第だ。
理想の和服姿を自分の中に持っている人ほど、そのこだわりも強くなる。
母はこだわりの塊だった。そんな女性が娘に着物を着せる行為は、即ち自分の作品を作るに等しいものだったのだ。だから、手を出すと怒り狂った。
(なるほどね)
得心がいった。そして、そのこだわりが、なんとなくではあるものの、自分の身についているのも知った。
ここに至って、私は漸く母に感謝の気持ちを抱いた。
着られる着物があること自体も、着道楽の母あってのことだ。やはり和服に関しては、母に頭が上がらない。
着付けを難しく考えるか否かは、個人差があろう。
だが、着付け教室という場所が存在する程度には、現代人にとっての着物は面倒なものに違いない。
原因は和服そのものにある。
世界を見渡しても、着物ほど雑な民族衣装はないからだ。
フォーマルから寝巻きまで。男物も女物もほとんど同じ形をしていて、素材の差異だけで春夏秋冬をまかなうなんて、まったく手抜きもいいとこだ。
それらを体形や場所柄に合わせて綺麗に着ようと思ったら、小煩くなるのは当然だろう。
着物が着られるようになった後、私はそんな小煩い筆頭である母に、改めて着付けを見てもらった。
相変わらず、母は毒舌だったが、もう反発はしなかった。
(この人は教えたいことがありすぎて、要領の悪い頑固な子供に苛立っていただけだったんだな)
ならば、よかろう。
教えを乞おう。
そうして、数カ月経ったのち。
ある日、衣紋を抜いた私の背後に回り、母はあらっと声をあげた。
「あんた、すごい衣装黒子を持っているのね。そりゃ、着物好きにもなるはずよ」
「衣装黒子?」
「首の後ろ、襟に掛かるところにある黒子のこと。そこに黒子があると、衣装持ちになるって言われているのよ。ほら、私にもあるでしょう?」
言って、母は自分の襟足を指さした。
セーターを捲って確認すると、確かにはっきりとした黒子がある。
私は洗面台に走って、自分の項を確認した。そこには写したかのように、母と同じ黒子があった。
(気づかなかった)
着物に憑かれる人の性は、こんなところにも現れるのか。
呆れつつ鏡を見ていると、後ろに立って、母が頷いた。
「そろそろ、私の着物も着てみる?」
「え?」
「あの大島とか、似合うんじゃないかしら」
言いつつ、母は簞笥に向かった。
何が母の感情を動かしたのかはわからない。が、着付けができるようになっても、年相応の着物を持たない私だ。母のその一言は、私を狂喜乱舞させた。
――以来、私は折あるごとに、母の簞笥から着物を引っ張り出した。出かける時は、母と相談してコーディネートを決め、着付けを確認してもらった。
なんだか、すっかり仲の良い親子だ。
そうして、それにも慣れた頃、季節は夏を迎えていた。
鮎の帯留めを手に入れてから、もう一年が経っていたのだ。
まだ帯留めをする機会は得られなかったが、鮎は初夏から夏の魚だ。その季節に合った着物を着られるようにならねばならない。
重い着物が着づらいのと同様、薄物にもコツがある。
(まずは練習用として、どれか一枚貸してもらおう)
私は夏物の入った簞笥を開いた。
と、最初に開けた引き出しに、ぽんと、畳紙にも包まずに、一枚の着物が置かれてあった。
黒地に銀灰色で横段が織り出された絹物だ。
粋な意匠の洒落着だが、母の好みとは違う気がする。
そっと手に取って広げると、絽とも紗とも判断つかない。
しなしなと纏いつくような生地から、部屋の景色が透ける。
薄い。
軽い。
そして、
(古い)
直感的に、私は思った。
「これなあに?」
私は着物を手に居間に向かった。
見た途端、母の顔色が変わった。
「どこにあったの、その着物」
「夏物の入った引き出し。一番上に置いてあったよ」
言うと怪訝な顔をして、母は私と着物を交互に見つめた。
なんだろう。
出してはいけないものだったのか。
母の様子に戸惑いながら、立ったまま首を傾げていると、母はやがて手を差し出した。
私は慎重に薄物を手渡す。母はそれを膝に置き、愛おしそうに手で撫でた。
「これはあんたのお祖母ちゃんが、若い頃に着ていたものよ」
祖母は、私が幼い頃に亡くなっている。だから思い出はほとんどないし、祖母の着物姿も記憶にない。
しかし、聞いたところによると、祖母もまた相当な着物好きであったらしい。
「お祖母ちゃんの着物姿はね、そりゃもう、かっこよかったのよ」
うっとりするように、母は語った。
(おや)
私が母の着姿に抱くのと、同じ感想ではないか。
なんとなく面白く感じていると、母は着物に目を落とした。
「沢山あったんだけどねえ。みんな戦争で燃えちゃった。だから、この着物も多分、戦後、手に入れたものじゃないかしら。焼け出されて、お金なんかなかったから、誰かから頂いたのかもしれないね」
――また戦争か。
人の命のみならず、一体、あの空襲でどれほどの美しいものがこの世から消えていったのか。
下町に住んでいる限り、この悲しさと悔しさは、いつもふいに訪れる。
(帯留めの顚末と似ているな)
この符合にはひっかかる。
同じ戦火を潜った地域というだけのことなのであろうか。
そんなことを考えながら、改めて着物に触れると、母が私に言葉を継いだ。
「あんた、これ着なさい」
「え?」
「形見分けにもらってから、大事にしていたんだけれど、大事にしすぎて、どこにしまい込んだのか、わからなくなっていたのよね。それを見つけたんだから、着なさいよ」
なんとも嬉しい申し出だ。
しかし、しまい込んだも何も、着物は引き出しの一番上に剝き出しのまま置かれていたのだ。わからないということはない。
私はそう思ったが、口に出すのはやめにした。
老いた母の記憶違いと判じたからだ。
(いや、それとも……)
もしかすると、将来、この着物に鮎の帯留めを合わせる日がくるのだろうか。
一瞬、陳腐な夢想に囚われた。が、母の言葉はまだ続いていた。
「私の着物も、もうみんなお前にあげるから、持って帰って、好きに着なさい。ただし、みっともない着方をしたら、みんな取り上げるからね」
祖母の形見を見つけたことは、そんなにインパクトのあることだったのか。
仰天したものの、このときの母の気持ちもまた、わからなかった。
しかし、この顚末の中心に誰がいるのかは意識していた。
「お祖母ちゃん……」
知らず呟くと、母は大きく頷いた。
「そういえば、お祖母ちゃんにも、衣装黒子があったわね」
言葉に、少し私はゾッとした。
何かにしてやられた感覚がある。
――私は真に自分の意志で着道楽になるのだろうか。
さて。
ここまで読んで、私が着付けの達人になったように思われる方もいるだろう。
だが、生憎、私は不器用だし、いまだに自分の着付けには納得いかない日も多い。
それでも、母がああ言ったのは、祖母の形見を通して、私の着物への熱情を理解してくれたからに違いない。
着物はしょせん服、ファッションだ。
纏い方もコーディネートも人それぞれでいいのだし、母の理想が和服すべての理想というわけでもない。
目のないところでは、私も母が許しそうにない着物を着ている。それでも、親と会うときは譲られた着物を身につける。
それが、私なりの礼節だ。
ちなみに、祖母の形見である薄物は、いまだに種類がわからない。
のちに呉服屋にも見てもらったが、正確な答えは得られなかった。
ただ、伺ったところによると、昔は小さな地域でのみ織られているような反物が、ちょこちょこ出回っていたという。着物が廃れて、それらは失せて、今は名前すらわからないものもあるということだ。
祖母の着物も、もしかすると、そんな物のひとつなのかもしれない。
いずれにせよ、この薄物は夏が来るたび身に纏う、お気に入りになっている。
当初は親子三代の因果のようなものを感じて、抵抗を覚えたものだけど、着物の魅力には抗えなかった。
これぞ、衣装黒子の威力か。
加えて、私は古い物が持つ力をも、祖母の着物に感じていた。
捨てても戻ってくる人形や、持ち主の執着が入った宝石が人を不幸にする話など……。古物にまつわる怪談は古今東西数多くある。
祖母の形見も意思を持ち、機が熟した頃を見計らって再び現れたのではなかろうか。
私はそんな想像をした。
しかし、改めて最近思うのは、経た年代に限らず、物は――着物はときとして、人の思いに呼応して気を引くのではないかということだ。