よみタイ

加門七海「着物憑き」
あの世とこの世のあわい。
幼いころからそれを感じ取る加門氏は、
ここ数年で、着物を身にまとう機会が増えた。
それは「夢中」を通り越し、まるでなにかに
「取り憑かれた」かのように……。
着物をめぐる、怪しく不思議なエッセイ。

帯(三)

 道明の帯締め、龍村の帯と言えば、現在でもトップブランドだ。
 値段の話はしたくはないが、道明は安くても一万を下ることはなく、高額なものは十五万円以上。龍村の帯はちょっと良い物なら、軽く百万を出てしまう。
 帯界のシャネルなどと言う人もいるけれど、両者の凄みは価格ではない。
 まずは道明の話をしよう。
 道明は現在十代目。代々、新兵衛を名乗っている。創業についてははっきりしないが、元々は武士であったらしい。
 道明新兵衛を名乗った初代は、江戸末期に現れた。
 当時は刀の下緒や柄糸などの需要が主であったというが、明治になって武士がいなくなったため、制作の中心は帯締めに移った。
 ちなみに帯締めを締めるのが一般的になったのは、お太鼓結びが流行って以降だ。深川芸者の遊び心が現代まで続いていて、和装の中心を占め、そして、皇室の方々までがお太鼓を締めているというのは、感慨深いものがある。
 それはともかく、ただの和装小物だった帯締めを芸術品にまで高めたのが道明だ。
 学究肌の家系だったのだろう。
 元々、物を結んだり、飾りとして用いられる添え物的な存在を道明は調査研究した。
 その研究は飽くまでも、帯締めとして商品化するためのものであったが、七代目(一九〇四~一九七二)は職人の域を出て、組織から染色、形状を忠実に分類し、国宝平家納経の巻物の紐、正倉院宝物の紐等を次々と復原していった。
 現在も販売されている「御岳組」は、武州御岳神社に残る鐙に使われていた紐の組方。
「厳島組」は平清盛が厳島神社に奉納した経巻――平家納経の組紐。
 そして「中尊寺組」は奥州藤原氏、三代藤原秀衡のミイラと共に棺の中にあった紐だ。
 七代目は棺にあったこの紐が大阪四天王寺に伝わる「聖徳太子のかけまもり」と同じ手法の色違いだということを発見している。
 そして、それらの研究は『ひも』という著作にまとめられ、縄文土器の縄目から近代のザイルまで、紐から日本史を語るといっても過言ではない名著となった。
『ひも』の中にひとつ、面白いエピソードがある。
 大正時代、正倉院宝物拝観は一般人にはなかなか許可が下りないものだった。
 しかし、どうしても正倉院に収められた紐を実見したかった七代目は、父と一緒に願書を出した。
 そのとき既に、道明は皇室の御用を承る身ではあった。が、しかし、まだ十代だった七代目の願いは容易に通らない。
 当時、奈良・京都・上野の三館を総括していた帝室博物館総長は「薄暗い室に、軍服姿で端然とかまえ」て、静かに言った。
「君たちの研究は買っているよ。だがきみはまだ若いし先があるから、今年はおやじさんだけ行ったらどうだ?」
 しかし、七代目は引き下がらない。紐の研究は父子でやっているものだ、私が行かないなら、父も行かないと言いつのる。すると総長は、
「やおら机の上に鉛筆をたたきつけながら、『ヨシ! 例外だぞ! 二人で行け』と軍人らしい口調でいわれた」
 ――このときの帝室博物館総長こそ、誰あろう、文豪・森鷗外なのだ。
 鷗外は大正六年(一九一七)から死去する十一年までの期間、帝室博物館総長兼図書頭ずしょのかみに任命されている。
 教養人であり、軍人であり、文豪でもある、この鷗外のひと言によって、七代目は正倉院の宝物を自分の目で見、以降、毎年のように通い続けることが叶ったのだ。
『ひも』には年代が記されていないが、鷗外が帝室博物館総長を務めたのは、五十五から六十歳の間。七代目道明は当時、十三から十八歳だ。
 孫にも等しい少年の言葉を、鷗外は頼もしいものと感じたのだろうか。
 ともあれ、鷗外の英断が、今に続く道明の芸術的な組紐に一役買ったのは間違いない。

 一方、龍村平藏は芥川龍之介と交流があった。
 七代目道明が正倉院に入ったのと同じ時期、大正八年(一九一九)に初代龍村平藏は四十三歳にして初の個展を開催している。
 その際、龍之介は「東京日日新聞」に『龍村平蔵氏の芸術』という一文を寄せている。
 せっかくだから、全文を載せよう。
「現代はせち辛い世の中である。このせち辛い世の中に、龍村平蔵さんの如く一本二千円も三千円もする女帯を織つてゐると云ふ事は或は時代の大勢に風馬牛だと云ふ非難を得るかも知れない。いや、中にはかかる贅沢品の為に、生産能力の費される事を憤慨する向きもありさうである。
 が、その女帯が単なる女帯に止まらなかつたら――工芸品よりも寧ろ芸術品として鑑賞せらるべき性質のものだつたら、如何に現代が明日の日にも、米の飯さへ食へなくなりさうな、せち辛い世の中であるにもせよ、一概に贅沢品退治の鼓を鳴らして、龍村さんの事業と作品とを責める訳には行くまいと思ふ。この意味に於て私は、悪辣無双あくらつむさうに切迫した時勢の手前も遠慮なく、堂々と龍村さんの女帯を天下に推称出来る事を、この上もなく喜ばしく思はない訳には行かないのである。
 と云つて勿論私は、特に織物の鑑賞に長じてゐる次第でも何でもない。ましてその方面の歴史的或は科学的知識に至つては、猶更なほさら不案内な人間である。だから龍村さんの女帯が、滔々たる当世の西陣織と比較して、――と云ふよりはくれはとりあやはとりから川島甚兵衛に至るまで、上下二千年の織工史を通じて、如何なる地歩を占むべきものか、その辺の消息に至つては、がうもわからぬと云ふ外はない。従つて私の推称が其影の薄いものになる事は、龍村さんの為にも、私自身の為にも遺憾千万な次第であるが、同時に又それだからこそ、私は御同業の芸術家諸君をみだりに貶しめる無礼もなく、安んじて龍村さんの女帯を天下に推称する事が出来るのである。これは御同業の芸術家諸君の為にも、惹いては私自身の為にも、御同慶の至りと云はざるを得ない。
 龍村さんの帯地の多くは、その独特な経緯の組織を文字通り縦横に活かした結果、蒔絵の如き、つゐしゆの如き、螺鈿らでんの如き、きんからかはの如き、七宝の如き、陶器の如き、乃至ないしたけぼりきんせきぼりの如き、種々雑多な芸術品の特色を自由自在に捉へてゐる。が、私の感服したのは、単にそれらの芸術品を模し得た面白さばかりではない。もしその以外に何もなかつたなら、近来諸方に頻出する、油絵具を使はない洋画同様な日本画の如く、私は唯好奇心を動かすだけに止まつたであらう。けれども龍村さんの帯地の中には、それらの芸術品の特色を巧に捉へ得たが為に、織物本来の特色がより豊富な調和を得た、殆ど甚深微妙とも形容したい、恐るべき芸術的完成があつた。私は何よりもこの芸術的完成の為に、頭を下げざるを得なかつたのである。遠慮なく云へば、鉅万きよまんの市価を得た足利時代の能衣裳の前よりも、この前には更に潔く、頭を下げざるを得なかつたのである。
 私が龍村さんを推称する理由は、この感服の外に何もない。が、この感服は私にとつて厳乎げんことして厳たる事実である。だから私は以上述べた私の経験をひつさげて、広く我東京日々新聞の読者諸君に龍村さんの芸術へ注目されん事を希望したい。殊に「日々文芸」と縁の深い文壇の諸君子には、諸君子と同じく芸術の為に、焦慮し、悪闘し、絶望し、最後に一新生面を打開し得た、その尊敬すべきコンフレエルの事業に、一層の留意を請ひたいと思ふ。何故と云へば私の知つてゐる限りで、しばしば諸君子の間に論議される天才の名に価するものには、まづ第一に龍村平蔵さんを数へなければならないからである。」(『青空文庫』より)
 当時、龍之介は二十七歳。年長の龍村平藏に、目一杯の賛辞を送っているのが微笑ましい。
 交流があったと記したが、ふたりがどのような関係だったのか、明確に示す文献は出てこなかった。
 だが、ほぼ同じ年代に、道明と龍村という近代和装の二大巨頭と、森鷗外・芥川龍之介というこれまた二大文豪が関わっているのは興味深い。
 この時代は国内外と共にきな臭かったが、アールデコ様式が花開き、日本では杉浦非水や竹久夢二が先端を走っていた頃だ。
 龍之介は「せち辛い世の中」と記したが、今より自由で豊かな才能と、闊達で高い見識を持った人々が生きていたのに違いない。
 その中、龍村平藏は確かにひとりの天才だった。
 初代龍村平藏は、明治九年(一八七六)、大阪の両替商平野屋に生まれた。
 裕福な環境の中で、茶道や謡、俳諧などを身近に育つが、十六歳のときに家業が傾き、彼は西陣に出て、反物の担ぎ売りをすることになる。
 しかし、すぐに飽き足らなくなった平藏は、自ら帯の制作を始めた。
 才能はすぐに芽を出して、三十歳のとき『龍村織物製織所』を設立。「高浪織」「纐纈こうけち織」「無線織」「相良織」などなどの織技法を発明。三十数種にも及ぶ実用新案特許を取得した。
 言葉で表すなら、まさに早熟。新進気鋭といったところだろう。
 また、西陣に機械化の波が押し寄せると、平藏は図案の重要性に着目。美術工芸学校から若手デザイナーを起用して図案を描かせた。
 その中にはのちの堂本印象をはじめとした芸術家が多数いて、彼らが手がけた帯は過去のものとは全く違うものだったという。
 龍村の技法とアイディアは、閉鎖的だった西陣の織物業界に衝撃を与えた。そして、その商品は女性たち垂涎の的となったのだ。
 これらの帯をどんな人が求めたのか。
 宮尾登美子は龍村平藏の生涯を『錦』という小説で描いている。初代の人生は作品の中からでも読み取れるが、客層については語っていない。
 高価だったのは確かなようだ。
 二〇一二年に高知県立文学館で開催された『宮尾登美子の『錦』と龍村平藏の「美」展』図録に、「『錦』うらばなし」という宮尾のエッセイが載っている。
 そこには昭和五十四、五年の頃、龍村の最高級品は六、七百万円したとあり、当時の歌舞伎座の一等席は六千円だったと記されている。
 今の一等席は一万八千円。単純に換算すると、帯の値段は一千八百万円となる。
 宮尾は別のエッセイで「帯一本に家一軒、というほど高価なもの」と記しているが、この値段なら、さして大袈裟な物言いとはならないだろう。
 また、宮尾は「昔から着物三枚に帯一本ともいい、いい帯が一本あれば着物は千変万化のおもむきとなる」とも記す。
 普通、着物に親しんでいる人が聞く言葉は「着物一枚に帯三本」だ。
 帯の雰囲気や格を変えることで、着回しができるという意味で、この場合は着物が主となる。しかし、宮尾の言葉は逆だ。主体は飽くまで帯にある。
 生憎、私は龍村の最高級品とやらを目にしたことはない。
 現在「たつむら」を名乗る機屋は『龍村美術織物』『龍村織物』『龍村光峯』の三軒がある。
 初代を含めたこれらの帯は、いずれもアンティークやリサイクルでお目に掛かることができる。
 妙に廉価な物から五十万以上の品もある。けれど、大胆な意匠、精緻な織り、時に宝石にも似る糸の燦めきを持つ龍村の帯は、一度知れば、他を見てもすぐそれとわかるほど個性的だ。
 しかし、市場に出回るこれらは多分、宮尾の言う最高級品ではないのだろう。
 実はあんまり高いので、龍村の帯がなんぼのもんじゃ、とひねくれてもいたのだが、初代から今までの龍村平藏を調べるうちに、私は考えを改めた。
 あまりにも激しい、織物に対する攻究に舌を巻いたのだ。
 初代がいくら苦労して新しい物を作っても、すぐ偽物が現れる。裁判を起こしても、別の織り元から偽物が出る。
 龍村が大阪出身であることも、京都西陣の織り元にとってはかなり面白くなかったようだ。繰り返されるいたちごっこに彼は神経をすり減らし、結果、平藏は特許のいくつかを西陣の組合に寄付してしまう。
 そして、新たに「歴史に残る名品に学んで模倣の及ばぬような作品をつくろう」(『錦 光を織る』龍村光峯 小学館)と決意する。
 いやはや。こうなってくるともう、市井の流行、ファッションの話からは逸脱してくる。
 大正末期、初代平藏は画家の黒田清輝や東京美術学校(現東京藝術大学)校長の正木直彦らが主催する織宝会の依頼を受けて、正倉院宝物裂、法隆寺裂など、名物裂の研究に着手する。
 初代の跡を継ぎ、裂の復元に尽力した二代龍村平藏光翔は『錦とボロの話』(龍村光峯増補 学生社)の中でこう述べている。
「一寸四角の織物のなかに約一万点の縦糸と緯糸の組み合わせがある。その一万ヶ所の点を、正しく、くまなく、根よく調べてしまうと、織物美術は元来一本の糸がより集まって構成されているものだから、その全部がわかれば一千年経っていようと復原できる 。」
 ――問題は、その「全部」がわかるまでだ。
 初代平藏は「復原の第一人者」といわれたが、古代裂は脆く儚く、触れただけで塵となる。
 そんな危うい断片を、技法はもとより、糸となる蚕の種類や産地、染めに使われる植物までをも特定し、千年以上前に織られた織物そのものを再度造り出す。
 模倣でもコピーでもない。時を超え、本物を作り出すのだ。
 正倉院裂ならば、奈良時代に光明皇后が収めた聖武天皇遺愛の品をそのまま新品にする。タイムマシンに乗ってすり替えても、元の裂と見分けがつかない――そこまでやるのが復原だ。
 縦糸と緯糸、一万ヶ所の組み合わせがわからなければできないが、わかったところで誰にでもできるというものではない。
 初代はその復原に尽力し、また一方で精力的に創作帯を発表していった。
 しかし、昭和天皇からのタペストリーの依頼に精根を使い果たして、次第に心を病んでしまう。
 この辺りの、初代の情熱と懊悩は鬼気迫る。また、周囲や宮内庁とのやりとりも胸苦しくなるほどなのだが、紙数の都合で割愛しよう。
 ともかく、初代を案じた正木直彦の助言によって、次男である龍村謙が二代龍村平藏光翔となり、帯はもちろん古裂の復原も引き継いだ。
 先程、私は模倣でもコピーでもなく、時を超えて本物を作り出すのが復原だと記したが、真実そこに至るにはもうひとつ、科学や数式では割り切れない能力が必要ではないかと疑っている。
 物を媒体として過去を読み取る、いわばサイコメトリー的な能力。あるいは、裂そのものの言葉を知る力だ。
 初代の異常とも言えるほどの集中力と観察眼を見ていると、この一族はある種、能力者の家系ではないかと思えてくるのだ。
 よく熟練した職人は「最後は勘です」と言う。その勘とやらはどこから来るのか……。(つづく)

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加門七海

かもん・ななみ●東京都生まれ。多摩美術大学院修了。学芸員として美術館に勤務。1992年『人丸調伏令』で小説家デビュー。日本古来の呪術・風水・民俗学などに造詣が深く、小説やエッセイなどさまざまな分野で活躍している。ひとり百物語を特技とするほど、豊富な心霊体験を持つ。また、オカルト・ルポルタージュでも注目を集めている。著書にエッセイ『うわさの神仏』『うわさの人物』『猫怪々』『お祓い日和 その作法と実践』『鍛える聖地』『大江戸魔方陣』『もののけ物語』『たてもの怪談』、小説に『祝山』『目嚢』など多数。

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