よみタイ

加門七海「着物憑き」
あの世とこの世のあわい。
幼いころからそれを感じ取る加門氏は、
ここ数年で、着物を身にまとう機会が増えた。
それは「夢中」を通り越し、まるでなにかに
「取り憑かれた」かのように……。
着物をめぐる、怪しく不思議なエッセイ。

帯(一)

 今まで怖い話や不思議な話をぽつぽつと語ってきたが、どういうわけか、帯にまつわる怪談はない。
 体験者が周りにいないというだけかも知れないが、長着が人の情念を写し、ときには意志を持つかのごとき振る舞いをするにもかかわらず、帯はどんなに古い物でも驚くほどさっぱりしている。
 皆無というわけではない。
 過去に目を転ずれば、それらしい話は残っている。東京都千代田区番町には「帯坂」という坂がある。
 切通し坂という別名を持つこの坂は、寛永年間(一六二四~一六四四)に市ヶ谷御門に抜ける切通しとして作られた。
 だが、所在地である「番町」から既に割れているとおり、切通しとしての史実より、怪談『番町皿屋敷』所縁の地として知られている。
『番町皿屋敷』は日本三大怪談に数えられるものなので、くどい説明は必要なかろう。
 青山播磨守主膳の腰元であるお菊は、家宝である十枚揃いの皿の一枚を割ってしまう。主膳はお菊を責め、皿一枚の代わりにと中指を切り落として監禁する。絶望した菊は隙を見て、古井戸に身を投げる。その後、夜になると井戸の中から「一枚……二枚……」と皿を数える声が響いて、主膳は錯乱。やがて公儀の耳にも入り、家は取り潰しになる、という噺だ。
 この怪談は『播州皿屋敷』をはじめ、類話が全国に存在する。考証すると元祖本家争いのようになってしまうので、深入りはしない。が、千代田区番町帯坂の名は、お菊が髪をふり乱し、帯をひきずりながらここを通ったという伝説から名づけられている。
 生憎、現在は風情もない舗装道路で、坂の上に立つ標識から往時を偲ぶほかはない。
 帯にまつわる怪談とは言え、帯そのものの怪異でもない。
 江戸時代、鳥山石燕が描いた『今昔百鬼拾遺』という画集には「じゃたい」という妖怪が出てくる。
『博物志にいわくひとおびしきて眠れば蛇をゆめむ」と云々 さればねためる 女の三重の帯は、七重にまはる毒蛇ともなりぬべし おもへどもへだつる人やかきならん身はくちなはのいふかひもなし』
 ――帯を敷いて寝ると蛇の夢を見る。嫉妬する女の帯は毒蛇にもなろうか。
 帯を生き物に喩えるならば、蛇以外にはないだろう。
 しかし帯を敷いて寝るとは、余程とっちらかった狭い家に住んでいるか、着物も畳まない不精者だ。
 粗末に扱うから、怒った帯が蛇となって夢に出るのだ、と私なんぞは思ってしまうが、夢占いでは蛇は金運のシンボルでもある。もしや石燕が引いた博物志は、金運アップのマジナイとして帯を敷いて寝ることを記したのではなかろうか。
 ともあれ、石燕は蛇を嫉妬の象徴として記している。
 同じく『今昔百鬼拾遺』には「はたひろ」という妖怪もおり、こちらは戻らない夫を怨んだ女が織りかかった機を断ったところ、布は機尋(一尋は六尺。約百八十センチメートル)の蛇と変じて、夫の行方を探し求める……というものだ。
 機尋は帯ではなくて反物だけど、長い布ということでへんも解釈も似通っている。
 長い布の妖怪で有名なのは一反木綿だ。
『ゲゲゲの鬼太郎』シリーズの人気キャラクターでもあるこの妖怪は、アニメや漫画では先細りの布につり上がった目と小さい手のついた形で描かれている。しかし元々は長い布がひらひら飛んで人を襲い、首を絞めたり窒息させたりというかなり物騒な存在だ。
 一反木綿の伝承地は鹿児島県肝属郡高山町(現肝付町)。柳田國男が『民間伝承』「妖怪名彙(四)」にて紹介している。
 その考証はさておくとして、興味を引くのは妖怪の名だ。
「一反」の「木綿」。これは気になる。
 一反の標準は幅約三十七センチ、長さは約十二メートル五十センチほど。着尺即ち着物一枚が作れる寸法で、一反木綿はその長さを持つ木綿の布の妖怪となる。
 木綿が国内生産され始めたのは、十五世紀末から十六世紀中頃、即ち戦国時代末以降だ。永原慶二『新・木綿以前のこと』によれば、文亀二年(一五〇一)、武蔵国越生郷上野村聖天宮社に「木綿一反」を奉納したという棟札が残っているという。
 つまり、当時の木綿は神に捧げるほどの高級品であったわけだ。
 木綿がなかった頃、庶民の着物は麻や葛布などがほとんどだった。木綿は乾きにくいため、屋外で働く人には不向きな衣料だ。さりながら、麻よりは遙かに暖かい。ゆえに綿栽培と綿織物は、急速に全国に広がっていった。
 明治になると国策によって綿の生産は強化され、輸出量は世界一となる。そして太平洋戦争で物資が不足してくると、今度は自給自足的な用途で綿の栽培が盛んになった。
 凋落したのは敗戦後だ。戦後、アジア産の安価な綿布が広まったため、生産は減少して輸出も減り、統計上、現在の国内自給率はゼロパーセントであるという。
 柳田國男が一反木綿の伝承を記したのは昭和十三年(一九三八)。氏が記録した一反木綿は、一体いつからいたのだろうか。
 その妖怪の名が最初から一反木綿と呼ばれていたなら、江戸時代以前には遡るまい。しかし綿織物が始まったごく初期に出現していたならば、妖怪は神に捧げるほどに尊い品の名を冠していたことになる。
 柳田が唱えたごとく、一反木綿に零落した神の面影を見て取ることも可能だろう。
 だが、木綿が全国に普及したのちに名づけられた怪異なら、妖怪としての格は落ちる。
 九州農政局のホームページ「地域のコラム」にはなぜか、一反木綿の話が載っている。
「大隅肝属郡方言集(野村伝四著、柳田国男編、昭和16年刊)、肝付町立歴史民俗資料館等によると、元々肝付町は武家の出が多く、布が豊富にあり、合戦で負けた落ち武者などをかくまう気質があった。また、元来亡くなられた武士の墓(土葬)に木の棒を突き立て、それに木綿の白い旗を立てて弔う風習もあった。そこで、その布に武士の無念が乗り移り、付喪神つくもがみとして一反木綿となり、人々の首に巻きついたり顔を覆ったりして窒息死させたり、巻かれた反物のような状態でくるくる回りながら素早く飛来し、人を体に巻き込んで空へ飛び去ってしまうという伝承が生まれたとのこと。」
 前述どおり、木綿生産は戦国時代末に始まった。
 ゆえにこの時代の鹿児島において、落ち武者の墓に木綿の旗を立てて弔うほど、「布」が豊富にあったかどうかは疑わしい。多分、もう少し後の時代、一般の武士を弔うために木綿旗を立てたのを混同したのではなかろうか。
 いずれにせよ、百鬼夜行絵巻をはじめ、妖怪達が描かれたのは十六世紀になってからだ。
 一反木綿もそれ以降。もしかすると綿織物が一番盛んであったとされる明治辺りに現れた妖怪であった可能性もある。(つづく)

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加門七海

かもん・ななみ●東京都生まれ。多摩美術大学院修了。学芸員として美術館に勤務。1992年『人丸調伏令』で小説家デビュー。日本古来の呪術・風水・民俗学などに造詣が深く、小説やエッセイなどさまざまな分野で活躍している。ひとり百物語を特技とするほど、豊富な心霊体験を持つ。また、オカルト・ルポルタージュでも注目を集めている。著書にエッセイ『うわさの神仏』『うわさの人物』『猫怪々』『お祓い日和 その作法と実践』『鍛える聖地』『大江戸魔方陣』『もののけ物語』『たてもの怪談』、小説に『祝山』『目嚢』など多数。

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