よみタイ

加門七海「着物憑き」
あの世とこの世のあわい。
幼いころからそれを感じ取る加門氏は、
ここ数年で、着物を身にまとう機会が増えた。
それは「夢中」を通り越し、まるでなにかに
「取り憑かれた」かのように……。
着物をめぐる、怪しく不思議なエッセイ。

糸(一)

 いにしえの着物を着た霊が周囲に漂っているせいか、彼女の姿を見た前後から、私の気持ちは急速にアンティーク着物に傾いていった。
 いや、何もかも心霊に結びつけることはないだろう。明確に意識するようになったきっかけには、いくつか現実的な理由がある。
 今回はそんなげんかいの話におつきあいを願いたい。

 当たり前の話だが、貪るように着物を見、資料を漁った理由の八割は物欲だ。
 欲しい、買いたいという気持ちがあるため、当然、値段も大いに気にする。じょうだいならこのくらい。リサイクルならこの程度。そんなことを頭に入れて、ものの値段がわかったつもりになった頃、気がつくと私は他人の和服姿に算盤そろばんを弾く癖がついていた。
 着物はいくら。帯はいくら。随分高いこしらえだなとかリーズナブルなもの着ているなとか。
 いやらしいこと、この上ない。
 そんな己を知ったとき、私は自分を大いに恥じた。が、世の中には金額という物差しで着物を見る人も少なくない。実際、歌舞伎座で見も知らぬ人から、安い着物を着てくるなと怒られた人もいたと聞く。
 そういう人は好みやセンスではなくて、すべてをお札の枚数で評価しているのかもしれない。
 悲しいことなのは確かだが、批判できる立場ではない。口に出すことこそなかったが、私も同じことをした。
 値段と値踏み。
 このふたつは、私が着物とつきあう上でのゆゆしき問題となったのだ。
 昔から、ブランドものが好きではない。
 特にひと目でそれとわかるマークやロゴの入った衣料は、しるしばんてんを身につけているように思えて心地悪い。
 値段が推し量れてしまうのも嫌だけど、なんで高いお金を払って義理もない店の広告をして歩かねばならんのか。チンドン屋にしたいならそっちが金を払え、と、腹立たしくもなってくる。
 一休(宗純)さんのものとされる説話に、法要を頼まれた家に襤褸ぼろを着て行ったら追い出され、金襴の袈裟を着て訪問したら招き入れられたという話がある。一休さんはその場で金襴の袈裟を脱ぎ、「用はこの袈裟に頼め」と言って帰ったとか。
 人は見た目が八割とは言われるものの、ある種のブランド品を目にすると、私はこの話を思い出す。
 しかし、それは着物も同じだ。見ただけで、ブランドや作家名のわかるものがある。そして知識が増えれば増えるほど、おおよその金額も見当がついてしまうのだ。
 なんとも言えず、鬱陶しい。
 自分が誰かを値踏みするのも浅ましいけど、他人に自分が値踏みされるのも気持ち悪い。それ以上に、金額を気にするようになった己が嫌だ。
 母から譲られた着物の中で、一時期、よく袖を通していたつむぎがある。しかし、あるとき、私はその紬が名もない品だと気づいてしまった。すると、なんとなく気後れがして、その着物を着る機会が減った。
 ――自分で自分の好きだった気持ちに、ケチをつけてしまったわけだ。
 物がわかってきた喜びとは別口の苦い感覚が、そこにはあった。が、一旦頭に入った知識や価格が記憶から失せることはない。
 鮎の帯留めに出会ったとき、私は値段や作者も聞かず、帯留めそのものに惚れ込んだはずだ。あのときの高揚感を私はもう得られない。
 生半可な知識を得るというのは、純粋さを歪め、濁らせるのか。
 もちろん、上質の着物は高価だし、その価値を否定する気はさらさらない。
 例えば一反を仕上げるまでにひと月掛かる着物なら、職人にはそれなりの対価が渡るべきだし、反物が問屋を通して小売店に行き着く頃には倍以上になるのも仕方ない。
 そう考えれば、高いけれども高くない。
 けれども、私は高価なものが欲しかったわけではないはずだ……。
 なんだかわからなくなってしまった。
 そうして悩んで、改めてアンティーク着物を目にしたとき、私は救われた気持ちになったのだ。
 無論、値段はある。けれど、アンティークの世界では名もなき職人たちが純粋に、美しいものを作り出そうと腕を競っていたからだ。

 アンティーク着物と言うと、大胆な柄や派手な色合いを思い浮かべる人も多いだろう。
 それらも無論、アンティークと言って間違いない。が、派手な色は大正時代以降、化学染料が導入されてからのものだ。
 草木染めを中心としたそれまでは、手間も掛かったし、彩度においても限界があった。そこに多彩でビビッドな色が手軽さと共にもたらされ、着物は一気に華やかになった。
 鮮やかなピンクや黄緑、紫。当時の染めを見ていると、新しい色が嬉しくって楽しくって、はしゃぐ心が伝わってくる。
 色味に限りがあったからこそ、友禅染の柄は元々大胆なものが多かった。その大胆な柄を派手な色彩で表現するようになったのだから、百花繚乱の様相となる。
 しかし、私は地味好みだ。そうなるとアンティークと言っても、選ぶのは渋いものか紬になってくる。
 初めて手にした本格的なアンティーク着物は、地模様の入った茄子紺色のきんしゃちりめんに小さな雀が控えめに飛び交っている小紋だった。
 昭和初期のものと聞いたが、私はまず、その柄に惹かれた。
 そうしてそれを手に取って、着物の軽さと生地の薄さに驚いた。
 染めの着物と言えば、しなだれかかってくるような縮緬しか知らなかった私には、心許ない気がしたほどだ。
 それでも充分気に入ったので、たもとの丈直しを頼んで購入を決めた。
 やがて家に届いた着物を浮き浮きと広げ、しつけ糸を取る。
 ――糸は容易に抜けなかった。
 抜こうとする度に引っかかるのだ。短い糸を繋いだため、結び目で止まってしまうのか。
 いや、そうではない。引くたびに、生地がくっと糸を噛む。
 つまり、
(糸が細い)
 生地を織った糸が細いのだ。
 ゆえに生地の目も細かくなって、しつけ糸が通りづらくなる。そして、そこまでの糸を使っているから、着物が軽くて薄いのだ。
 のちに聞いた話によると、昔の蚕は今よりも小さかったため、吐く糸も細かったのだとか。しかし、お蚕さまの食べる桑の葉も今よりずっと硬かったので、細くとも丈夫だったという。
 宮中の御養蚕所では、小石丸という蚕を育てている。
 小石丸は奈良時代から飼育が始まったとされる種で、糸が非常に細くて強い。宮中で育ったその蚕の糸は、現在、正倉院宝物などの修復に使われていると聞く。
 奈良時代の宝物には、奈良時代起源の糸というわけだ。
 さんとはまったく違うらしい。ときどき目にするものとして新小石丸という蚕糸もあるが、これは海外種との掛け合わせだ。小石丸は飼育が難しいために一般には普及せず、私たちの手に触れる機会はほぼ存在していない。
 目の前にあるアンティークは、無論 、小石丸のごとき貴重な絹ではない。しかし、それでも現代のものとは異なっているように思われた。
 羽織ってみると、軽さは一層際立った。裾に薄く綿が入っている。
 なるほど。
 うちかけなどの豪華な衣装にはふきに綿が入っているが、その本来は生地が翻るのを抑えるための実用的な意味があったのか。
 そんな推測をしたほどだ。
 ……まあ、今だからそう記せるものの、当時の私はその軽さが糸や織りの質から来るものなのか、着物が安物のペラペラなのか、正直、よくわからなかった。
(でもまあ、気に入ったんだからいいや)
 私はいつも通りの――漸くいつも通りの「好き」だけの気持ちに戻って納得した。
 糸と織りの差を実感したのは、沢山のアンティーク着物に触れる機会を得てからだ。
 古いものになるほど軽い。柔らかい。それは紬についても同じだ。
 話が前後するけれど、着物に前のめりになっていた頃、こんな言葉を耳にした。
「紬は育てるものですよ」
 母から譲られた大島紬を、呉服屋に見せたときだった。
 いっぴき物の反物を、長着と道中着とのアンサンブルに仕立てたものだ。本来は男物なので、色は濃く、柄は亀甲。地味ではあるが光沢があり、母の気に入りの一枚だ。
 その裾回しが少し擦れたので、私は自分で見つけた呉服屋に洗い張りと仕立て替えをお願いした。
 不思議なことに、同じ反物のはずなのに、道中着と長着では手触りや光沢が微妙に違う。着物の方は柔らかく、驚くほど光っているのに、道中着はすべてにおいて、それより少しおとなしい。
 なんでだろう。
 疑問を口に出したとき、
「道中着は長着より洗い張りをしないですからね」
 呉服屋は当たり前の顔で笑ったのだ。
 泥染めの大島紬は繊維の隙に泥が残っている。その泥が摩擦や洗いを繰り返すことで落ち、絹本来の光沢と柔らかさが出てくるという。
 年月を経るほどに、紬は着れば着るほどに、美しく着心地がよくなってくる。そうして最高の状態を迎えたのちに、布は力を失って着物としての役目を終える。
「それが紬というものです」
 呉服屋は私に教えてくれた。そうして、母の着物を褒めた。
「とてもいい状態に仕上がってますね」
 持ち主の体温や皮脂、身につけたり、洗い張りをするタイミングや頻度によっても紬の「仕上がり」は変わってくる。その人ならではの着物に変化する。それを「育てる」という言葉を使って、呉服屋は表現したのだ。
「では、同じ大島を同じ年月私が着たら、違うものになるのでしょうか」
「そうですね。並べてみればわかる程度の差は出てくるんじゃないでしょうか」
 聞いた途端、頭の中にひとつのアイディアがひらめいた。
 我が家には仕立て下ろしたまま箪笥の肥やしになっている、ゆうの着物が一枚ある。
 名の知られた織元のばた結城で、いわゆる重要無形文化財。しかし、硬くて着心地が悪いと、母はほとんど袖を通さないままだった。
 結城紬は、仕立てたばかりの頃は糊が強くてごわごわしている。そのため、数年間は女中に着させろとか寝巻きにしろとか、三代着てから味が出るなどと言われてきた。
 現在は技術も発達し、それほど硬くはない。しかし、母が買った昭和の頃は結城は硬いままだった。
 紬を育てる――言葉に惹かれて、私は眠っていた着物を引っ張り出した。
 そして単衣ひとえに仕立て直して、伝えられている通り、寝間着として着用したのだ。
 二年間。
 最初の頃、着物はやっこだこのように突っ張って、本当に着心地が悪かった。じかにはまとわず、パジャマの上に巻くようにして寝たのだが、生地が素肌に触れるところはこすられるため、結構痛い。厚い紙を折ったごとき、大きく太い皺もついた。
 それらが時の経つほどに、体に馴染んで気にならなくなる。
 着心地とは別の話だが、結城を寝間着にするという暴挙にも思える実験で、何より驚いたのは綿わた紬の温かさだった。
 夏は着られたものではないが、秋から春先、それから梅雨寒の時期、結城を纏って寝ている間は一度も毛布を出さずに済んだ。
 真綿というのは木綿の綿が普及した後、区別するため、絹の綿についた名称だ。それはともかく、まさに真綿に包まれて寝る感触は、夜が待ち遠しくなるほどの贅沢な温もりを伴っていた。
 このままずっと、毛布代わりにしたいと思ったほどだ。けど、それでは本末転倒だ。二年二回目の春を迎えて、私はくたくたになった紬を期待と共に洗い張りに出した(ちなみに次の冬、真綿入りの毛布を新調した)。
 自分の肌と体温で育てた紬の結果や如何。
 私は戻ってきた着物を広げた。
 予想通りに柔らかくて、ふんわりしている。二年前とは別ものだ。素晴らしい。
 会う人ごとに褒められて、エピソードを話すと驚かれ、皆一様に面白がる。
 私はすっかり悦に入った。
 が、その自慢の鼻は翌年に、いとも容易たやすくへし折られてしまった。
 百年以上の時を経た結城に出合ってしまったためだ。(つづく)

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加門七海

かもん・ななみ●東京都生まれ。多摩美術大学院修了。学芸員として美術館に勤務。1992年『人丸調伏令』で小説家デビュー。日本古来の呪術・風水・民俗学などに造詣が深く、小説やエッセイなどさまざまな分野で活躍している。ひとり百物語を特技とするほど、豊富な心霊体験を持つ。また、オカルト・ルポルタージュでも注目を集めている。著書にエッセイ『うわさの神仏』『うわさの人物』『猫怪々』『お祓い日和 その作法と実践』『鍛える聖地』『大江戸魔方陣』『もののけ物語』『たてもの怪談』、小説に『祝山』『目嚢』など多数。

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