2023.6.14
原作小説の映画化を楽しむコツは「言語化と視覚化」――小説と映画、二つの『トニー滝谷』を比較する
ストーリーを追うだけでなく、その細部に注目すると、意外な仕掛けやメッセージが読み取れたり、作品にこめられたメッセージを受け取ることもできるのです。
せっかく観るなら、おもしろかった!のその先へ――。
『仕事と人生に効く 教養としての映画』の著者・映画研究者の伊藤弘了さんによる、映画の見方がわかる連載エッセイ。
前回に続き、村上春樹作品の映像化における特徴を、『トニー滝谷』を中心に考察します。
映画化に消極的な村上春樹
「……僕は君のことを深く愛してるけど」
「なに急に」
「どうしても耐えられないことが一つある」
「なに」
「君の運転。頼むから前見て」(濱口竜介、大江祟允「ドライブ・マイ・カー」、『シナリオ』2021年11月号、42頁)
アカデミー国際長編映画賞に輝いたことでも話題になった映画『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介監督、2021年)は、原作を村上春樹の同名の短編小説に仰いでいる。ただし、単行本で50ページ足らずの短編を3時間の映画にするにあたっては、大幅な脚色が施されている。たとえば、冒頭に引用した夫婦の会話は村上の原作にはないものである。
小説は、主人公の家福が女性の運転する車に乗ると居心地の悪さを感じるという話から始まっている。映画はこの部分のニュアンスを夫婦間の短いやりとりに移し替えて表現している。小説を映画化する際に、設定やセリフに変更が施されるのは珍しいことではない。むしろ自然なことである。基本的に文字だけを使って一つの世界を立ち上げる小説と、映像(視覚や音響)を用いることのできる映画とでは、表現できることが異なるからだ。これはどちらのメディアがすぐれているかという話ではない。
村上春樹は自分の小説が映画化されることに消極的な作家として知られている。その理由について、村上自身は以下のように述べている。
僕は自分の小説が映画になるのが好きじゃなくてだいたい全部断っているんですが、それは自分の書いた科白がそのまま音声になるのが耐えられないからです。
(村上春樹、柴田元幸『翻訳夜話』文春新書、2000年、213頁)
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「目で見ると普通」でも、音にしてしまうと「すごく変に響く」ことがあるというのである。なるほど、「音声」は確かに映画にあって小説にはないものだ。とはいえ、村上作品を直接の原作とする映画は短編や中編も含めて現在までに少なくとも11本撮られている。そのリストは以下の通りである。
1. 『風の歌を聴け』(大森一樹監督、1981年、原作は同名の中編小説)
2. 『パン屋襲撃』(山川直人監督、1982年、原作は同名の短編小説)
3. 『100%の女の子』(山川直人監督、1983年、原作は短編「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」)
4. 『森の向う側』(野村惠一監督、1988年、原作は短編「土の中の彼女の小さな犬」)
5. 『トニー滝谷』(市川準監督、2005年、原作は同名の短編小説)
6. 『神の子どもたちはみな踊る』(ロバート・ログヴァル監督、2008年、原作は同名の短編小説)
7. 『ノルウェイの森』(トラン・アン・ユン監督、2010年、原作は同名の長編小説)
8. 『パン屋再襲撃』(カルロス・キュアロン監督、2010年、原作は同名の短編小説)
9. 『バーニング 劇場版』(イ・チャンドン監督、2018年、原作は短編小説「納屋を焼く」)
10. 『ハナレイ・ベイ』(松永大司監督、2018年、原作は同名の短編小説)
11. 『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介監督、2021年、原作は同名の短編小説)
それぞれの企画に許可を出した正確な理由はわからないが、こうして一覧を眺めてみるとある程度の傾向が見えてくる。まず、短編小説を原作にしているケースが多い。映画化された11本のうち、中編小説の『風の歌を聴け』と代表的な長編小説『ノルウェイの森』を除く9本の原作が短編小説である。それから、外国人の監督による映画化が3本ある。『神の子どもたちはみな踊る』と『バーニング 劇場版』は劇中の言語も外国語であるため、村上が懸念していた「自分の書いた科白がそのまま音声になる」という事態は自ずと避けられる。
原作が短編小説であるという点も、セリフの問題に関わってくる。数十ページの小説を2時間程度の映画にしようと思ったら、脚色によって分量を増やさざるをえない。そうすると、劇中で音声が与えられることになるオリジナルのセリフの割合は、必然的に少なくなる。もちろん、村上が脚色や演出を任せられると判断した人物でなければならないのは大前提である。
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