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原作小説の映画化を楽しむコツは「言語化と視覚化」――小説と映画、二つの『トニー滝谷』を比較する

小説の雨と映画の雨

 映画『ドライブ・マイ・カー』の場合は、同名の短編小説だけでなく、「シェエラザード」と「木野」という二つの短編の設定を流用することで分量を増やしている(これら3つはいずれも短編集『女のいない男たち』に収録されている)。脚本を共同で手がけた濱口と大江は、設定をそのまま持ちこんで継ぎはぎしているわけではなく、全体として話の筋が通るように、それぞれの要素を絶妙に膨らませ、調整をくわえている。冒頭に引用したセリフもその一例である。家福が妻を愛していること(しかし、家福は妻の不倫を知っているため、胸中には複雑な思いを抱えている)や、家福が女性ドライバーの運転を苦手にしているらしいということをさりげなく示し、後半の展開を準備しているのである。

 また、視覚や音響の面でも創意が凝らされている。その一例として雨の描写が挙げられる。短編小説「ドライブ・マイ・カー」に限らず、村上の小説では頻繁に雨が降る(先ごろ発売されて世間の話題をさらった新作『街とその不確かな壁』[新潮社]でも、至るところで雨が降っている)。しかし、映画『ドライブ・マイ・カー』は短編にはない場面を新たに創造して、そこに雨を降らせているのである。原作では、家福の妻は癌に冒され、最期はホスピスで過ごしたことになっている。しかし、映画ではくも膜下出血で急死しており、原作にはない葬儀の場面が描かれている。この葬儀の場面で雨が降っているのである。

 妻が亡くなる前には、家福夫妻の幼くして亡くなった子どもの法事も描かれているが(こちらも原作にはない場面だ)、その際にも雨が降っている。この雨は、遺族の悲しみを視覚的に表現したり、しめやかに執り行われる儀式のムードを演出したりするためだけに降っているわけではない。ここでは深入りしないが、やはり映画後半には、前半部分を受ける形で雨のシーンが描かれ、しかも音響的にも回収されることになる。

 是枝裕和の『DISTANCE』(2001年)を取り上げた回で「水」の連関を指摘したように、こうしたモチーフに着目して読み解くことができるのも映画の醍醐味である。カンヌ国際映画祭で脚本賞とクィア・パルム賞を獲得した是枝の新作『怪物』の公開が6月2日から始まっているが、この映画でもやはり「雨」が重要な役割を果たしている。小説であれば「雨が降っている」と書けば済むところでも、映画ではかなりのコストを支払ってわざわざ降らせなければならない。画面を浸す雨には、しかるべき重みが備わっているのである。

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伊藤弘了

いとう・ひろのり 映画研究者=批評家。熊本大学大学院人文社会科学研究部准教授。1988年、愛知県豊橋市生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒。京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。著書に『仕事と人生に効く教養としての映画』(PHP研究所)がある。

Twitter @hitoh21

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