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原作小説の映画化を楽しむコツは「言語化と視覚化」――小説と映画、二つの『トニー滝谷』を比較する

 アシスタント志望の女性は、衣装室に残された大量の服と靴に圧倒され、自分でもよくわからないままにむせび泣き始める。その姿を見たトニーは、求人そのものを取り下げて、残った服を古着屋に引き取らせる。空っぽになった衣装室に横たわるトニーの姿は、かつて中国の刑務所の独房に囚われていた父・省三郎の姿と重なる【図4】。

【図4】
【図4】

 イッセー尾形と宮沢りえの一人二役と構図の反復によって、映画では親子二代にわたる喪失と孤独が強調されている。また、結末部分も微妙に変わっている。小説は、父の省三郎が亡くなって、トニーが「今度こそ本当に一人ぼっちになった」ところで終わる。一方、映画は父の死後にトニーがアシスタント志望の女性に電話をかけるシーンで終わる。トニーは、帰宅直前の女性が大家に足止めされているあいだに受話器を置いてしまう。結局、電話はつながらない。彼は何を求めて彼女に電話したのだろうか。亡き妻の代わりを務められる人間はどこにもいない。その喪失感と孤独感は誰にも埋め合わせることはできない。それはそれとして抱えつづけ、しかし、別の誰かを別の誰かとして強く求められるようになるときがトニーに訪れるだろうか。映画は小説とは異なる余韻を残して静かに幕を下ろす。

イラスト:高橋将貴
イラスト:高橋将貴

「感想迷子」のために

 この連載では、映画を分析的に見るための方法を紹介してきた。分析を通して映画の魅力を言語化することができれば、「感想迷子」を脱することができるかもしれない。とはいえ、ちゃぶ台をひっくり返すようで恐縮だが、原理的には人を感心させるような巧みな感想を言う必要も、それを目標にする必要もない(したければしてもいいが)。感想を言語化することによって、自分がその映画をどこまで理解できたかが把握できる。それが肝である。何かを安易に「わかった」と思ってしまうほど危ういことはない。

 一本の映画のすべてが理解できるということはありえない。「わかる領域」を増やすことではじめて、その先にある「わからない領域」を感じることができる。「その映画について自分にはよくわからないことがある」ことを知るのである。あるいは、自分に理解できる範囲の、その先をどうにかしてうかがおうとする試みだと言い換えられるだろうか。そこで自分にだけは微かに感じとることのできる何かは、もはや他人とは共有不可能だろう。人は同じものを見ても、同じことを感じるわけではない。映画に真摯に向き合うと、むしろ人と人はわかり合えないということがわかってくる。なるほど、それは確かに孤独な経験には違いない。しかし、このうえなく贅沢な経験でもあると思う。

図版クレジット
【図1〜4】『トニー滝谷』市川準監督、2005年(DVD 、ジェネオン エンタテインメント、2005年)
本連載は今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました。

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伊藤弘了

いとう・ひろのり 映画研究者=批評家。熊本大学大学院人文社会科学研究部准教授。1988年、愛知県豊橋市生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒。京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。著書に『仕事と人生に効く教養としての映画』(PHP研究所)がある。

Twitter @hitoh21

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