2023.8.4
「長生き」=「幸福」か 第14回 いつまでも気が抜けない「普通」のおばあさんたち

第14回 いつまでも気が抜けない「普通」のおばあさんたち
親の葬儀などを出してみると、人は人生の最後まで格差の中を生きるのだな、ということがしみじみわかるものです。人が死んだとなるとすぐに葬儀社の人達がわらわらとやってきて葬儀の準備となるわけですが、お棺、骨壺からお通夜後に供する寿司まで、ありとあらゆるものがそのレベルによってランクづけされている。火葬場においても、炎はどれも同じであろうに、質素なカマからゴージャスなカマまで色々あって、その使用料は全く違うのであり、ましてや戒名においては、その設定理由が一般人には全く理解できない金額、じゃなくてお布施の差が。
この状態は、死を迎える前段階から始まっています。どのレベルの治療をするのか、病院では個室なのか大部屋なのか等、これまた「地獄の沙汰も……」と呟きたくなる状態に。経済的な格差は寿命の格差に直結するのでしょうね、と思わざるを得ません。
がしかし、立派な葬儀を出したり、豪華なカマでお骨になったりすることが本人にとって幸せなのかというと、私にはよくわからないのでした。昨今の高齢者達を見ていると、お金をたくさん持っている人が必ず幸せそうなわけでもなく、また質素な暮らしをしている人が不幸なわけではない。高齢になってからの幸福感の高低には、お金以外の様々な要因が関係しているようなのです。
中高年のほとんどが抱いている「老後の不安」の大きな部分を占めているのは、確かにお金の問題です。○歳までに○○万円の貯金が必要、といった言説は、人々の不安感を煽るもの。もしその○○万円を貯めたとしても、予想を超えて長生きをしたら……と考えると、不安はさらに募るのです。
一方で、お金と同等もしくはそれ以上に大切とされているのが、健康です。いくらお金があっても、健康でないと意味がないということで、年をとると「金持ち」と「健康持ち」の価値は、ほとんど変わらなくなってくるのです。
知り合いの女性は、九十代半ば。高級な高齢者施設で、生活しています。しかしたまに電話で話すと、彼女はあまり幸せそうではありません。
「施設に住んでる人とはあまり話は合わないし、食事にも飽きちゃったわ。もう、ただ生きてるだけよ。長く生き過ぎてしまった……」
と。
端から見ていると、彼女は「全てを持つ高齢者」なのです。まずは、誰もができるわけではない「長生き」をしている。年齢なりに脚が悪かったりはするけれど、認知症でも寝たきりでもない。
子、孫、ひ孫に恵まれ、それぞれが立派に成長してもいます。そして何よりも彼女の亡き夫は実業家だったのであり、夫の会社は息子が継いでいる。高齢者の多くが不安を感じている経済的な面で、全く不安を感じずに過ごすことができるのです。
全てを持っているのになぜ、幸福感が低いのかというと、いみじくも彼女が言ったように、「長く生き過ぎてしまった」という感覚が関係している気がしてなりません。九十代ともなれば、樋口恵子先生おっしゃるところの「ヨタヘロ期」となり、自分がしたいことを思いのままにできるわけではない。施設では不自由のない生活をしているけれど、刺激は無い。
「長く生きるのも、考えものよ」
と、彼女は言うのです。
思い返せば昔は、「長生き」=「幸福」でした。長生きができる人は、恵まれた人。お年寄りに対して人は、ほとんど挨拶のように、
「長生きしてくださいね」
と声をかけていたものです。
しかし今、
「長生きしてくださいね」
という言葉を、あまり聞かなくなりました。私達は、長生きが必ずしも幸福でも幸運でもないと感じているのであり、お年寄りに対して「さらなる長生きをせよ」と言うのは酷なのではないか、という気持ちを抱いているのです。