よみタイ

村井理子「実母と義母」

女は旦那に命がけで尽くすもの 第3回 義父母の病と母の最後の恋

父と正反対のタイプを選んだ母

 この頃、私の母は独身生活を謳歌していたと言ってもいい。父を失い、十年以上が経過していたが、経営していた喫茶店の営業は順調だった。駅のすぐ前という立地条件も味方していたが、母自身がとても明るい人で、人気者だったと近くで暮らしていた親戚からは聞いている。確かに、母の周囲にはいつも、同じぐらいの年代の仲間がいて、その多くが店に集まって朝から晩まで話し込み、笑い、楽しそうな時間を過ごしていた。楽しむ人たちの輪に加わらなくとも、本だけを読みに来る人もたくさんいた。Googleストリートビューで十年前の店の様子を確認してみると、ドアの横に小さな看板を見ることができる。そこには「どうぞお気軽にお立ち寄り下さいませ」と書いてある。父が経営していた頃は、客人を拒絶でもするような厳めしい雰囲気があった店も、母が経営するようになってからは、駅前の気さくな喫茶店に変わっていたのだ。母はなにより店が大事だし、店が大好きだと常に言っていた。だから、私もあまり心配はしていなかった。一人の男性に関すること以外は。
 母は父が亡くなった直後から、とある男性と交際しはじめた。初めて二人で旅行に行ったと、恥ずかしそうに私に言ったのは、父が亡くなってから一年も経過していないときのことだったほど、母は彼を熱烈に愛していた。
 彼は、父とはまったく別のタイプの男性だった。常に笑顔を絶やさず、よくしゃべり、明るかった。友達も多かったようだし、なにより、彼は母が住む港町の住人ではなく、東京在住でたまに仕事でこの町にやってくるという、母にとっては都会の香りを漂わせた、自慢の人、特別な人だったのだ。
 母は彼を連れて、私が住む京都にも頻繁にやってきた。三人で食事をしたことも何度もある。悪い人ではないとは思ったが、父が亡くなったばかりだということ、父の静かな雰囲気が皆無の、むやみやたらと明るいだけの男性にうんざりした。車はロールス・ロイスで、家は三階建てなのと母が言うたびに、ため息が出た。そんな嘘に簡単にひっかかる母に呆れてしまった。私がどれだけその男性の悪口を言っても、ニコニコ笑って、「いいの、私が好きなんだから」と母は照れるでもなく言っていた。
 そんな母を見て、私が腹を立てたかというと、そういうわけではない。父が死んで間もなくその男性の存在を知ったときは悲しかったけれど、自分が年を重ねれば重ねるほど、父とは正反対の男性を選んだ母の気持ちは痛いほど理解できた。緊張感で張り詰めたような家庭で疲弊しきった母が求めたのは、明るく、楽しい恋だった。それがわかってからは、母が男性について大いに惚気ても、苦笑して相手をしていた。ひとつ気になっていたのは、祖母の証言だった。祖母は私に会うたびに、絶対に誰にも言わないでと念を押しながら、祖父が残してくれた預貯金を母が使ってしまうのだと打ち明けた。驚いた私は、母に問いただした。そのお金は祖母が生活するために祖父が残したお金なのだから、いくらなんでも手をつけてはいけないのではないか、理由があるのなら、しっかり説明したほうがいいと伝えたのだ。母はいつものように曖昧に、「わかったよ」とは言ったが、その後、多くの親戚から、母がその男性に多額の金を貢ぐようになっていると聞かされ続けた。
 母とは共依存の関係にあった兄にみつぐのなら百歩譲って理解できるが、祖母の預貯金を家族でもない男性に、彼氏に貢ぐのは常軌を逸している。兄もその状況を素早く察知したようで、私に何度も連絡を入れてきた。かあちゃんを騙すなんて許せねえ、俺がとっちめてやると息巻く兄に、「ちゃんと状況を把握してからのほうがいいよ、そのとっちめるってやつは」と私が言うと、「お前はいいよな。のんきに京都でおしゃれな暮らししちゃって」と兄は嫌味を言った。
 
 義母は、そんな状態になっている母のことを私から聞き、こう言った。「あなたのお母さんは本当の恋愛をしているんやね。あなたも大人なんだから、それを許せるような人になりなさい」。そう言ったときの義母の穏やかな表情をよく覚えている。「誰だって、寂しいのよ。あなたもお母さんの年齢になったらよくわかるようになる。騙されようと、騙すよりはいい。本人も納得済みで騙されているんだったら、外野が騒ぐことじゃないでしょ」
「お父さんはね、私のことを弟子の一人だと思ってるんよ」と、義母は続けた。「私のことを便利な人間だと思っているのかもしれない。それでも、苦しいときに救ってくれたのはあの人やった。だから、心から感謝してる」
 和食調理人で多くの若手調理人を育てていた義父は、家の外では「親父さん」と呼ばれる絶対的権力者だった。義母はその絶対的権力者の義父に完全に尽くすことで、山あり谷ありの人生を生き延びてきた。私に、同じように夫や家族への忠誠を求めたのは、そんな理由があったからかもしれない。
 結局、母はどうしても恋人から離れることができなかった。最後の最後まで、彼女は彼を愛していたようだ。母が亡くなったとき、彼女が後生大事に持っていた小さな黒いメモ帳には、彼の名前が至るところに書いてあった。名前の下には、必ず、貸した金額も記入されていた。彼だけではない。私が母の店の常連客で、長年の友人だと思っていた人たちの名前も書かれており、名前の下にはやはり、貸した金額が書かれていた。数えるのも嫌になったが、合計で百万程度はあっただろう。親戚によれば、恋人に対しては数千万円の金額だったのではということだった。母はそこまでして、恋人に尽くした。恋人だけではない、友人だと思った人たちに頼られ、なけなしの金を貸した。私と心を通わせることが叶わず、他人にお金を使うことで、どうにかして人間関係を保っていたのかもしれない。手帳に挟まれていたアドレス帳の最初のページには、なぜか、私と夫の住所と電話番号だけが記載されていた。
 母は私に対して、あなたは自由に生きなさいと言い続けた。亡くなる数年前には「あなたはもう大丈夫。立派に生きていける。これからも自由に生きていきなさい」と手紙をくれた。母は、家のなかでのみ絶対的権力を持った父に忠誠を尽くし、父に攻撃の対象とされた兄を生涯かけて守り抜き、ようやく見つけた本当に愛する人に、最終的には金銭を与えることを選んだ。「あなたは穏やかな人と結婚できてよかった。静かな暮らしができることが、何よりの幸せだから」という、母の言葉が心に残る。

 

*次回は10月18日(火)公開予定です。

反響続々! 好評既刊『兄の終い』『全員悪人』『家族』をめぐる濃厚エピソードと40冊

実兄の突然死をめぐる『兄の終い』、認知症の義母を描く『全員悪人』、壊れてしまった実家の家族について触れた『家族』。大反響のエッセイを連発する、人気翻訳家の村井理子さん。認知症が進行する義母の介護、双子の息子たちの高校受験、積み重なりゆく仕事、長引くコロナ禍……ハプニング続きの日々のなかで、愛犬のラブラドール、ハリーを横に開くのは。読書家としても知られる著者の読書案内を兼ねた濃厚エピソード満載のエッセイ集。

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村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。主な連載に「村井さんちの生活」(新潮社「Webでも考える人」)、「犬(きみ)がいるから」(亜紀書房「あき地」)。主な著書に『兄の終い』『全員悪人』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。主な訳書に『サカナ・レッスン』『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。
『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』が、9月に文庫化予定!

ツイッター:@Riko_Murai
ブログ:https://rikomurai.com/

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