2020.12.18
ミラノのマクドナルドは自由の味がする
スルが私を好きになった理由のひとつは、私が離婚経験者であるからだった。最初に会った日、スルは、日本での離婚事情や、離婚後の女性の生き方についてたくさん質問してきた。母国でのあり方と比較したかったようだ。スルが言うには、カザフスタンでは離婚する女性の自立はまだまだ難しい。離婚自体がそれほど多くもない。だがあまりの苦労に、彼女は離婚を決意した。だから自分と同じような経験を持つ遠い国の女性にトルコで出会えたこと、しかもお互い一人旅で訪れる場所の趣味も合っていること、そのすべてが本当に嬉しかったのだと彼女は言った。
「私もちひろも強い女なの! それにクレイジーよ! 日本とカザフスタンのクレイジー・シスターズよ!」とスルはお酒に酔い始めると陽気に騒いで、あまり見たことがないダンスを始める。騎馬民族に伝わるリズム感なのだろうか。踊りながら彼女は「恋をしよう!」と私にけしかける。それは彼女自身が熱望することであり、おおかた自分に向けて言っているのだが。
ドゥオモの階段を登り切ったというのに元気がない私を見て、スルは「恋の問題か? それとも離婚のことで悩んでいるのか?」と曇った顔で尋ねた。私が抱えていた当時の問題は、具体的に言えば「おそらく今後家庭も持たず子どもも持たず、ひとりでやっていくが、貯金もないフリーランスのライターで、仕事もぱっとしない」というものだったから、文化背景も社会背景も異なる場所で生きてきた彼女に伝えるのは難しかった。それ以前に、複雑な英語がスルには伝わらないし、私はロシア語も喋れない。
そこで私は、無理やり元気になることにし、大丈夫だよと渾身の力を込めて笑顔になった。スルは素直にそれを受け取ってくれ、よし、じゃあ、ご飯を食べに行こう!と言った。広場に出ると、彼女は母国語で電話をかけた。男友達がごはんをおごってくれるという。
スルと同じ国から来たというその男性は、イエランという名前の中年男性だった。がっしりした体つきで胸を張った歩き方をするから、自信に満ちた雰囲気がする。彼はおそらくいまスルに夢中だ。かっこいいところを見せたいのだろう、「お嬢様こちらですよ」というふうにエスコートして、ミラノの街を歩いて行く。
いそいそと歩いてたどり着いたのは、マクドナルドであった。
ミラノにせっかく来たのに、マクドナルド? 他の店も開いているのに、マクドナルド? パスタではなくハンバーガー? しかもミラノのマクドナルドは、びっくりするほど高いのに?と私は疑問が止まらなかったし、さすがにこれはないよと言おうとした。しかしスルはキラキラした目でメニューを見つめている。呆然としていると、彼らは次々と注文を始めた。私を振り返り、何にする?と言う。私は「ポテトとオレンジジュース」とどうにか答えた。それだけでいいのかとスルは驚き、遠慮するな、たくさん食べろと言う。しかし固辞した。多少、私の顔はひきつっていたかもしれない。
二階席のテーブルに、ハンバーガー、ポテト、アップルパイ、ナゲット、アイスクリームなどのジャンクフードがあふれかえった。どうやって三人で食べるのだろう。ミラノの真ん中のマクドナルドで、カザフスタン人たちがパーティーを始めている。それは美味しそうにスルは次々食べていく。よほど私が怪訝な顔をしていたのだろう。イエランが言った。「カザフスタンにはマックがないんだよ。元ソビエト連邦の共産主義国だったからね。だから、カザフスタン人は西に来ると絶対にマックを食べるんだ。自由の味」。
ああ、そういうことだったのか。思いが至らなかった私は、むしろ恥ずかしくなってしまった。カザフスタンが共和国として独立したのは1991年。まだ30年も経っていない。いま、カザフスタンは地下資源の開発によって経済成長を遂げていて、中央アジアでの存在感を強めようとしているそうだ。だからこそミラノ万博にも出展している。観光客も集めたい。「ちひろ、来てよ! いつか私の国に。きれいなところだよ。草原もあるよ。いろんなところに連れて行きたい!」とスルはハンバーガーを頬張りながら言った。私たちはいま、同じものを食べているけれど、舌が感じ取る味はきっとまったく違うものだろう。そんな経験を、私は初めてしたような気がする。
食事を終えるとイエランは職場に戻った。私はある劇場に演劇を見に行きたかったのでスルを誘ったが、案の定彼女は「ショッピングのほうがいい」と断った。夕方にまた会う約束をし、いったん別れた。塩分も油分もたっぷり補給したスルは、意気揚々と華やかな街並みに消えていった。