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ミラノのマクドナルドは自由の味がする

 そして三時間後。スルが泣きながら電話をかけてきた。状況が把握できないので、とにかく急いで彼女を探す。先ほどとうって変わって、うなだれ、頼りなくとぼとぼと歩くスルの姿が公園にあった。地下鉄を降りる瞬間に財布をすられたのだという。そういえば彼女はとても小さなバッグを肩から無防備にかけていただけではなかったか。せめて斜めがけにするように注意をすればよかったと後悔しても、後の祭りだ。さらに、彼女は二週間以上のミラノ滞在で必要な費用のすべてを現金で持ち歩いていたらしく、丸ごとすられてしまったという。初めてヨーロッパに来て、ミラノ初日に一文無しになってしまったのだ。

 このとき十七時を過ぎていたはずだが、六月のミラノはまだ明るく、太陽の光があたたかいのだけが救いだった。私も多少パニックだったせいで場所が判然としないが、お城のようなものが見えるところで、芝生が広がっていた。のどかな風景だった。私たちはかなり長い間そこに座って話し合っていた。藁にもすがる思いで、私は自分のクレジットカード会社のミラノ支店に電話をかけ、「こういうときはどうしたらいいのか」と尋ねてみた。当然のことだが、どうにもならなかった。警察に届けるべきだと説得したが、スルは失敗を上司に知られたくないと主張する。その判断は間違いだといくら言おうと、折れない。

 アイラインが溶けるのも厭わず泣き崩れ、途方に暮れるスルは、誰かに電話をしては苦境を訴えていた。知らない言語で絶え間なく続く嘆きを悲しい音楽のように聞きながら、自分の手持ちを確認すると財布には大して入ってなかった。スルを置いてATMに向かった。戻ってくると、彼女はまだ電話していた。終わるのを待って、私のできる限りの額として五百ユーロを渡した。「返すのは、いつでもいいから」と私が言うと、スルはぎゃんぎゃん泣いた。正直あのときの五百ユーロは私には痛手だったが、この状況で他の選択肢を取れる人などいるのだろうか。

 芝生の上で膝立ちになり、天に向かって両腕を開いて、彼女は「おお、神よ! クレイジー・シスターという友を私に与えてくれてありがとう!」と言ったようだった。母国語と英語が入り混じっていた。その後スルは延々泣いて、「私、こんなにひどい一日は初めてだけど、こんなにありがたく思った日も初めて」と繰り返していた。スルの頭を撫でて、しばらく黙っていた。そして私は翌朝早く、ミラノを発った。

 たった五百ユーロで、ミラノでの数週間を過ごせるとは思えない。スルがその後どのように事態を乗り切ったのかは、詳しくは知らない。しかし、一年くらい経った頃、五百ユーロの送金がふいにあったから、彼女はうまくやりきれたのだ。彼女は強くて、クレイジー。そして途方もないドジっ子だ。たぶんいつか、死ぬまでに、もう一度くらいは会えるのではないかと思う。だがマクドナルドは、もう勘弁してもらいたい。

※濱野ちひろさんの「一期一宴」、次回は、1/1(金)配信予定です。お楽しみに。

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新刊紹介

濱野ちひろ

1977年、広島県生まれ。
2000年、早稲田大学第一文学部卒業後、雑誌などに寄稿を始める。インタビュー記事やエッセイ、映画評、旅行、アートなどに関する記事を執筆。
2018年、京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。現在、同研究科博士課程に在籍し、文化人類学におけるセクシュアリティ研究に取り組む。
2019年、『聖なるズー』で第17回開高健ノンフィクション賞を受賞。
その他最新情報は公式HP

写真:小田駿一

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