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平日は会社員、休日はバンドマン。自己流スタイルを貫き続けた、the原爆オナニーズTAYLOWと「パンクの本質」

元「smart」編集長・佐藤誠二朗によるカルチャー・ノンフィクション連載「Don't trust under 50」。
 有頂天のKERA、ラフィンノーズのチャーミー、ニューロティカのATSUSHI、ザ・スター・クラブのHIKAGEに続いて登場するのはthe原爆オナニーズのTAYLOW。1982年にバンドを結成して42年。いまも変わらず地元・名古屋を拠点に活動を続けるリアルパンクバンドのフロントマン、TAYLOWの貴重なロングインタビューをお届けする。全4回にわたって、TAYLOWの現在、過去、そして未来に迫る。

(全4回の1回目 #1 #2 #3 #4)

“売れる”ことを想定していないようなバンド名

取材は5月25日(土)下北沢QLUB Queでのライブイベントにて。リハ後のポートレイト。(撮影/木村琢也)
取材は5月25日(土)下北沢QLUB Queでのライブイベントにて。リハ後のポートレイト。(撮影/木村琢也)

 中学生だった1980年代前半からパンクにのめり込んだ僕にとっては、なじみ深いバンド名だ。愛読していた『宝島』、『DOLL』、『FOOL’S MATE』といった雑誌や、通い詰めていたレコード屋のインディーズコーナーで頻繁に目にしていたからだ。
 当時からパンク好きの間ではとても人気があり、知らぬならモグリと言われても仕方がないほど有名ながら、初めて聞いた人は誰もがギョッとする。こうしたカルチャーによほど理解のある人の前以外では、声に出しづらいバンド名であることは間違いない。

 ボーカルのTAYLOW(タイロウ)がステージに出てきてそのバンド名を叫ぶと、ライブハウスのフロア前方に殺到した客は拳を突き上げ、歓喜の雄叫びをあげる。

「ウィー・アー・the原爆オナニーズ!!!」

 演奏が始まるや、客はモッシュ・ダイブ・サークル・リフトといった激しいパンクノリで呼応。その光景は、バンドが活動を始めた1980年代当時と、ほとんど変わりなく見える。
 観客そしてステージ上のバンドメンバーが等しく、約40年分の歳を重ねていること以外は。

 並大抵の音楽評論家では到底太刀打ちできぬほど、パンクを知り尽くす男・TAYLOW率いるthe原爆オナニーズ。
 当然、奏でるのはゴリゴリのパンクロックである。長い活動歴を通して、絶え間なく熱狂的なファンがついているが、一般層にまで浸透するような親しみやすい音とは言えない。
 そもそもバンド名からして、“売れる”ことは想定していないと見るべきだ。

 セックス・ピストルズのもじりで付けられたそのショッキングなバンド名について、かつてTAYLOWは「人々がこのバンド名に嫌悪感などの反応を持ち、核・反戦について問題意識を起こさせることができればよい」と述べている。

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バンド参入当時、すでに社会人だったTAYLOW

貴重なリハの模様も見学させていただいた。ストイックに細かな音にこだわるメンバー。(撮影/木村琢也)
貴重なリハの模様も見学させていただいた。ストイックに細かな音にこだわるメンバー。(撮影/木村琢也)

 売れないバンドマンの人生は厳しい。
 まとまった収入がないのでアルバイトで食いつなぎつつ、ブレイクを夢見てバンド活動を続けるが、非情にも年月は無為に経過するのみ。生活は荒んでいく一方。誰もが想像するステレオタイプは、そんなところだろう。

 the原爆オナニーズは違う。人気があるとはいっても、世間一般の人が思う“ブレイク”とはほど遠い立ち位置で活動を続けているのに、メンバーの生活は安定している。
 TAYLOWは、the原爆オナニーズとして活動を開始した1982年当時、すでに普通の会社の正社員だった。以来ずっと、平日は会社員、休日はバンドマンという二足の草鞋を履き続けてきたのだ。

「1980年の2月から3月に、ロンドンでいろんなパンクバンドのライブを見て、頭をぶちのめされて帰ってきました。そんでそのまま、4月に就職です。普通の会社に就職したわけだし、自分でバンドをやるということは頭になかった。ただ、ロンドンで感じたパンクの思想を、どうやってみんなに広めようかと考えていました。
 バンドだけでやっていこうと考えたことは一度もないけど、the原爆オナニーズで活動するようになってからもその気持ちはずっと同じです」

 当時の日本に、メディアを通して伝わってくるパンクの情報は限定的かつ断片的だった。そうした切れ切れの情報をつなぎ合わせ、日本の初期のパンクスは独自のスタイルを築きつつあったのだが、情報不足や誤解によってチグハグなパンク像が生まれていたことは想像に難くない。
 ロンドンから帰ってきたTAYLOWはサラリーマンとして働きながら、以前より知り合いになっていた地元・名古屋のザ・スタークラブやロッカローラなどのバンドのライブに顔を出し、メンバーにロンドンの最新パンク事情を伝えていく。
 それはバンドの音から始まり、ファッションやライブでの暴れ方(ノリ方)、そしてパンクの根底に流れる哲学まで多岐にわたった。

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「そんなのパンクじゃない」という声に対するTAYLOWの答え

 バンドを結成しても普段は別の仕事を持ち、ライブは会社が休みの日のみ。バンドの人気が高まってもメジャー進出は考えず、インディーズで活動していくというTAYLOWの基本姿勢は崩れなかった。
 TAYLOWだけではなく、the原爆オナニーズの現メンバーは全員、彼と同様に別の仕事を持ち、休みの日限定でバンド活動を継続してきた。

「たまたま原爆に同じ考えの人が集まったわけではなく、要するに僕が洗脳したんです。『そんなんじゃ、60になったとき食ってけないよ』って。会社では総務畑の仕事をしていたこともあって、現実を冷静に見てたんで。
 EDDIE(ベースのエディ。1982年からthe原爆オナニーズで活動)は僕と同じように学校を出て就職したから、考え方は完全に一致していました。SHIGEKIくん(ギターのシゲキ。1983年加入。海外転勤のため2001年に脱退)はメジャーに行きたいという意思を持っていたけど、僕とEDDIEに『人生設計を考えたときさ』なんて言われて、考えを変えたみたい。
 面白いことにその頃のライブハウスは、土曜日や日曜日ってプロの人はライブをやらないんですよ。月曜日から金曜日までがプロバンド、土日はセミプロやアマチュアバンドと住み分けがあった。こちらも平日は働いてるから、東京でライブやるにも土日しか行けないし、ちょうどいいやと思いました」

 バンドを続けていくためには、むしろしっかりとした別の仕事を持っていなければならないというTAYLOWの考えに賛同したメンバーで結束するthe原爆オナニーズ。一方で、バンドのオリジナルメンバーである良次雄(ギター)や、1982年に加入し1985年に再加入したドラムのTATSUYA(中村達也)のように、ミュージシャン志向の強いメンバーは短期間で脱退していった。

「そんなのロックじゃない、パンクじゃないと言う人がいるかもしれないけど、実はそれこそがパンクの本質だと僕は思っていて。
 パンクっていうのは、自分がどのように生活してどのようにありたいかを見据えて、どう自己実現していくかを考えることだと思っとったんでね。それを音楽で実現できるのならそれでもいいんだけど、僕らは日本の音楽業界では受け入れられにくいと思ったから、もう一本の道筋を作っていこうって考えたんですよ」

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佐藤誠二朗

さとう・せいじろう●児童書出版社を経て宝島社へ入社。雑誌「宝島」「smart」の編集に携わる。2000~2009年は「smart」編集長。2010年に独立し、フリーの編集者、ライターとしてファッション、カルチャーから健康、家庭医学に至るまで幅広いジャンルで編集・執筆活動を行う。初の書き下ろし著書『ストリート・トラッド~メンズファッションは温故知新』はメンズストリートスタイルへのこだわりと愛が溢れる力作で、業界を問わず話題を呼び、ロングセラーに。他『オフィシャル・サブカル・ハンドブック』『日本懐かしスニーカー大全』『ビジネス着こなしの教科書』『ベストドレッサー・スタイルブック』『DROPtokyo 2007-2017』『ボンちゃんがいく☆』など、編集・著作物多数。

ツイッター@satoseijiro

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