2023.8.14
日本一悲壮感のないパンクバンド・ニューロティカ物語。還暦寸前の成人病持ちだけど、あっちゃんは今夜もモテモテ!?
ニューロティカのヴォーカル“あっちゃん”ことATSUSHIの2回目。前回は、昼は実家の菓子店の店主として、夜はライブハウスを盛り上がるロックスターとして生きる、現在の日々についてお伝えした。今回は、バンドマンには、やっぱり大切な“モテ”についての今昔物語。
(全4回の2回目 #1 #2 #3 #4)
80年代インディーズブーム〜バンドブームの中で頭角を表したニューロティカ
1980年代前半、日本の音楽業界の片隅で最初にインディーズ文化の灯火をつけたのは、メジャーなレコード会社からは決して相手にされない(つまりファンが少なくてまともなセールスが期待できない)パンク・ハードコアパンク・ニューウェーブ系の、一癖も二癖もあるアングラ志向のバンド、あるいは政治的主義主張の激しいバンドたちだった。
しかしハードコア畑から出てきたラフィンノーズを筆頭に、親しみやすいポップなパンクロックを奏でるバンドが当時の若者たちの心をとらえると、たちまち“インディーズブーム”と呼ばれる社会現象となっていった。
1980年代半ばになると、ポップ系パンクの流れからザ・ブルーハーツやザ・ポゴ、ケンヂ&ザ・トリップス、レピッシュ、筋肉少女帯といった人気バンドが続々と生まれ、ボーカリスト“あっちゃん”ことATSUSHI率いるニューロティカもそのシーンの中核にいた。
80年代後半にインディーズブームから発展したバンドブームは、ポップ系パンク勢が牽引。そこからは、ジュン・スカイ・ウォーカーズというモンスター級人気バンドも生まれる。メディアから“ビートパンク”という新しい呼称も与えられた彼らはいつしか、当時のユースカルチャーの震源地的役割を担うようにまでなっていたのだ。
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そうした一群の中でも、ニューロティカはちょっと異色なバンドだった。
同時期にパンクの本場イギリスで、アディクツやトイドールズを中心に盛り上がっていた、パンクにコミカル要素を取り入れた“スラップスティックパンク”(直訳すると「ドタバタ喜劇のパンク」)の日本における代表格として、一際強烈な存在感を放っていたのだ。
ニューロティカは1984年の結成後、自らのレーベルからカセットテープ、ソノシート、EPなどを立て続けにリリースしながら、『Oi of JAPAN』『STRAIGHT AHEAD』などのオムニバスアルバムに参加。また、メジャーデビュー直前の1988年から1989年にかけてはJICC出版局(現・宝島社)が立ち上げたインディーズレーベル、キャプテンレコードからファーストアルバムを含む音源を続々とリリースしている。
現在のライブでも最高に盛り上がる「DRINKIN’BOYS」「ア・イ・キ・タ」「チョイスで会おうぜ」「…to be HARLEM」などは、このインディーズ時代に発表された初期代表曲だ。
そしてこの頃からすでに、明るく楽しくて笑えるのにどこか切ない、ポップなパンクバンドという立ち位置、メロディアスで疾走感のある楽曲、そしてピエロの扮装でステージ上を激しく立ち回るあっちゃんのヴォーカルスタイルは完全に確立されていた。
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