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二宮寿朗「1980年生まれ。戦い続けるアスリート」
不惑が間近に迫る年齢になりつつも、変わらず戦い続ける1980年生まれのアスリートたちに、スポーツライター二宮寿朗氏が迫るこの連載。
中村憲剛選手田臥勇太選手館山昌平投手大黒将志選手玉田圭司選手木村昇吾選手和田毅投手に続く、8人目のアスリートは、水泳、飛び込みで東京オリンピックに出場する寺内健選手。
初回は、わずか1.6秒の戦いに込める深い想いについて、2回目は、引退から復帰にいたる時期について、3回目は、寺内選手を救った尊敬するレジェンドたちの言葉についてお伝えしました。
連載最終回となる4回目は、ズバリ自身6回目となる東京オリンピックへの想いについて――

東京で6度目のオリンピック。「メダルは今回が最も近い」と飛び込み・寺内健が思う理由とは?

取材後の9月22日、男子3メートル板飛び込みの日本選手権で15回目の優勝を果たした。(撮影/熊谷貫)
取材後の9月22日、男子3メートル板飛び込みの日本選手権で15回目の優勝を果たした。(撮影/熊谷貫)

39歳にして、シンクロ、ソロの2種目で東京オリンピックに出場決定!

偉大な記録である。

飛び込み界の第一人者・寺内健は2020年の東京オリンピックによって、日本人最多タイとなる6度目の夏季オリンピック出場を果たすことになる。単純計算、24年にわたってこの大舞台に立ち続けている。今回、坂井しょうとのペアでシンクロ3m板飛び込みの「内定」をつかみ、個人ではアジアカップの3m板飛び込みで優勝して出場を決めた。39歳、その勢いはとどまることを知らない。

モチベーションは、メダルだ。

ここまで5大会、表彰台は一度もない。ザッと記録を振り返ってみたい。
高1で臨んだアトランタは高飛び込み10位、4年後のシドニーは高飛び込み5位(日本人最高位)、3m板飛び込み8位といずれも入賞した。翌年の世界選手権では日本人初となる銅メダル獲得(3m板飛び込み)によってアテネへの期待が高まったものの、シドニー以上の成績を収められなかった。4年後の北京も3m板飛び込みで11位止まり。引退から復帰して2大会に出場したリオは決勝に進めなかった。次の東京は、鉄人・寺内にとって6度目の正直となる。

意識自体、引退前と復帰後では違っていると寺内は言う。

「飛び込みを好きだったかどうかと聞かれると、北京までの10年くらいはハッキリと好きとは言えなかった。使命感みたいなものが強くて、それを降ろしたときに一気に気持ちがなくなって競技をやめたんです。飛び込みの魅力を感じながら全うしたいという思いが出てきて、それを持って臨めばメダルが見えてくるかもしれないと思ったんです」

使命感は自分の力を引き出す一方で、自分を追い詰めることで視野を狭めてしまう。逆に使命感に縛られてしまったことが“伸び悩み”の要因を引き込んでしまった。

最初に立ったアトランタオリンピックの舞台は、寺内少年の目に輝いて映った。選手村のマクドナルドは無料で、ゲームセンターも無料で遊べたとか。競技にフォーカスするよりは、参加できるだけで毎日が楽しかった。

まだ16歳の高1。寺内いわく「子どもでしたね」とちょっと苦笑いを浮かべる。

「テレビを通してしか観ていなかった世界が現実になったわけですからね。アトランタに関しては出場しただけで目標が達成された感覚でした。練習では(馬淵)崇英コーチに怒られながらやっていて、何とか決勝には行けました。でも決勝でどう戦おうなんていう考えまでは至らなかった。ただ、一度経験できたので次回のオリンピックではこうしたいなって思えたことは良かったと思います」

五輪にまた出たい。今度はもっといい結果を残したい。いや、頑張れば絶対に残せるんじゃないかという確信もあったという。

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二宮寿朗

にのみや・としお●スポーツライター。1972年、愛媛県生まれ。日本大学卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社し、格闘技、ラグビー、ボクシング、サッカーなどを担当。退社後、文藝春秋「Number」の編集者を経て独立。様々な現場取材で培った観察眼と対象に迫る確かな筆致には定評がある。著書に「松田直樹を忘れない」(三栄書房)、「サッカー日本代表勝つ準備」(実業之日本社、北條聡氏との共著)、「中村俊輔 サッカー覚書」(文藝春秋、共著)など。現在、スポーツ報知にて「週刊文蹴」(毎週金曜日)、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」(不定期)を好評連載中。

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