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田臥勇太の情熱は自分と人を動かし、ラッキーを引き寄せてきた

不惑が間近に迫る年齢になりつつも、変わらず戦い続ける1980年生まれのアスリートたちの人生に、スポーツライター二宮寿朗氏が迫るこの連載。サッカー中村憲剛選手に続く、2人目のアスリートは、中村選手が同世代のスターとしてあこがれていたという、日本人初のNBAプレーヤー、プロバスケットボールの田臥勇太選手です!

誰よりもバスケットボールを持つ姿が似合う。(撮影/熊谷貫)
誰よりもバスケットボールを持つ姿が似合う。(撮影/熊谷貫)

中村憲剛があこがれた同世代スター、田臥勇太とバスケの出合い

僕らの世代の2大スター。
Jリーガーの中村憲剛は、そう表現する。
一人は野球の松坂大輔、そしてもう一人がバスケットボールの田臥勇太。

15歳でテレビCMに起用され、秋田・能代工業時代には3年連続でインターハイ、国体、ウィンターカップを制して史上初の9冠を達成。『週刊少年ジャンプ』で連載されたバスケ漫画「SLAM DUNK」の人気も追い風となって、カッコいいスポーツのカッコいい象徴となっていく。

カッコいいのは「外面」よりも、むしろその「内面」にある。

173cmはバスケの世界では小柄だ。それでもスピードとテクニックで日本人初のNBAプレーヤーとなり、その後も挑戦を繰り返してきた。
大きな選手に弾き飛ばされようが、大きな夢にはね返されそうが、折れない、めげない、あきらめない。昔も、今も。

日本に帰国してからはリンク栃木ブレックスの中核を担い、2016~17年シーズンに誕生したBリーグの初代王者にもなった。38歳、今なお田臥勇太は日本バスケ界の顔として走り続けている。バスケが好きで好きでたまらない。彼の隣にいるだけで、それは十分に伝わってくる。

小学2年生から始めるバスケとの出合いは、まさに運命だった。
母親が経験者で3つ年上の姉もバスケをやっていた。だがそれは単に「出合う」きっかけであって、「はまる」きっかけではなかった。

すぐにはまった。
父親があるゲームを録画してくれていた。
1988年、ロサンゼルス・レイカーズとデトロイト・ピストンズのファイナル第7戦。スーパースターのマジック・ジョンソンが中心になって奏でるファストブレイク(速攻)に目を奪われ、アイザイア・トーマス率いるピストンズを振り切って優勝した興奮は、いつ観ても、何度観ても小学2年生の少年の目には新鮮に映った。

「父親がこのゲームセブンをたまたま撮ってくれていたんです。ラッキーでした。本当にビデオテープが擦り切れるまで、繰り返し観ましたね。このゲームばっかり(笑)」

生まれ育った横浜市金沢区の地域は、バスケが盛んだった。田臥少年はソフトボールでキャッチャーもやっていたが、バスケ一本に絞っていくことになる。

バスケがそこまで好きなら、と父親が家の前に手づくりのバスケットゴールをつくってくれた。試合に出ようが出まいが、両親がいつも駆けつけてくれてビデオで撮影してくれた。

朝食を摂りながらゲームセブンを見て登校し、授業が終わればバスケットボールの練習、家に戻ったらバスケット雑誌を読みふけった。NBAの服を着込み、誕生日に買ってもらうのはバスケットシューズ。気づけばボールはいつも手元にあった。バスケ、バスケ、バスケの毎日。好きこそ物の上手なれ、を地で行くバスケ少年であった。

「これもラッキーなんですけど、通っていた小学校のバスケが強くて3年、4年、6年と全国大会に出ることができたんです。3、4年は控え組でしたが、みんなうまくて。でもやりながら、感覚的にバスケは得意だなって思うことができました。楽しかったし、のめり込んでいく自分がいました」

中学でもバスケット漬け。このときは何か大きな夢を描いていたわけではない。NBAに日本人選手がプレーすることなど夢のまた夢だった時代、国内にプロのバスケットリーグもなかった時代。うまくなりたい、その一心だった。中学3年で全国大会に出場して3位となり、ベストファイブにも入った。

「高校の進学も、最初は地元の神奈川県内で強い学校を目指していたんです。でも県で優勝できて関東大会に出たので、関東に広げて考えるようになったら、次に関東で優勝できたので全国に目が向いて。そんなときに能代工業から(進学の)話があって“行きたい!”となったんです。ちょっとずつというか、一つひとつ目標が上がっていく感じでした」

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二宮寿朗

にのみや・としお●スポーツライター。1972年、愛媛県生まれ。日本大学卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社し、格闘技、ラグビー、ボクシング、サッカーなどを担当。退社後、文藝春秋「Number」の編集者を経て独立。様々な現場取材で培った観察眼と対象に迫る確かな筆致には定評がある。著書に「松田直樹を忘れない」(三栄書房)、「サッカー日本代表勝つ準備」(実業之日本社、北條聡氏との共著)、「中村俊輔 サッカー覚書」(文藝春秋、共著)など。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」(不定期)を好評連載中。

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