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ピアノの先生を夢見た“ライパチ”少年、館山昌平をプロへと導いた“観察力”

不惑が間近に迫る年齢になりつつも、変わらず戦い続ける1980年生まれのアスリートたちに、スポーツライター二宮寿朗氏が迫るこの連載。サッカー中村憲剛選手、バスケットボール田臥勇太選手に続く、3人目のアスリートは、東京ヤクルトスワローズの館山昌平投手。世代を代表する松坂大輔選手とは、まさに高校時代、同じ神奈川県で死闘を演じた館山選手。だが、その少年時代は、多くのプロ野球選手のように“野球が上手い地元の天才少年”ではなかった――

クラブハウスにて。ハワイでの自主トレ帰国後とあって日に焼けた精悍な表情が印象的。(撮影/熊谷貫)
クラブハウスにて。ハワイでの自主トレ帰国後とあって日に焼けた精悍な表情が印象的。(撮影/熊谷貫)

生涯初ヒットは、4年生のグリップエンドに当たったまぐれのヒット

ケガを乗り越えるたびに、館山昌平は強くなる。
体も心も、そして意志も、意地も。

37歳、東京ヤクルトスワローズひと筋17年目。プロ野球界でめっきり減った1980年度生まれ松坂世代の一人である。しかもその松坂大輔とは日大藤沢高時代に投げ合ってきたライバル。2015年に館山自身が獲得したカムバック賞を3年後の昨年、中日ドラゴンズで復活を遂げた松坂が受賞するなど、今なお不思議な運命の糸でつながっている。

手術で体にメスを入れたのはこれまで9度、175針の傷跡を持つ。しかしいくらその数字が加算されようとも「ケガで引退はしない」信条が揺らぐことはない。2018年シーズンは未勝利に終わったとはいえ、むしろケガなく乗り切ったことで復活への足音は確実に近づいている。
 

松坂大輔と出会うのは、まだ先の話――
1981年3月、設計士の父と教師の母のもとに生まれた館山は、もともと野球が盛んな神奈川県厚木市で少年時代を過ごした。

最初の夢は、ピアノの先生。
様々な球種を扱ってきたその繊細な指感覚は、鍵盤で鍛えられたものであった。音楽も教えていた母親の影響で、自宅にあったピアノを弾くことは自然の流れだった。

「3歳からピアノを始めていて、小学校に入っても教室にあったエレクトーンを弾いていました。ピアノは楽しかったし、女の子に『これどうやって弾くの?』と聞かれて『簡単だよ』って教えたりして。母からは『ピアノを1時間練習してから遊びにいきなさい』と言われていたので、いつもそうやっていましたね」

環境がその人の運命を決めるというのは、よく聞く話。
しかし館山少年を振り向かせたのはピアノではなかった。
住んでいたマンションのエレベーターに乗ると、バットやグローブ、ボールを持つ子供たちと一緒になった。心のどこかで野球が気になっていた。

地域には少年野球のチームとソフトボールのチームがいくつかあった。周りを見渡せば、誰かが野球をやっていた。
あるとき遊んでいたら、自分のところにボールが転がってきた。投げ返した相手は、クラスの友達。「一緒にやろうよ」。小学校2年生、野球を始めるありがちなきっかけによって、彼は野球の世界に引き寄せられた。のめり込む対象がピアノから野球に変わったのは、これもまた自然の流れだったのかもしれない。

だが、彼曰く「それが全然うまくなかったんです」。
そのころの記憶は鮮明に残っているという。

「4年生になって初めてヒットを打ったんですけど、それがバットのグリップエンドに当たってヒットになったんです。三振しては泣いての繰り返しで……。5年生のときはライトで8番バッターのいわゆる“ライパチくん”でした。守備のときにライトゴロを狙って一塁に投げるんですけど、ボールが逸れて相手に点数が入っちゃって、マウンドまで謝りに行ったこともありましたから。コーチに『何やってんだ』って怒られて(苦笑)」

うまくならないなら、あきらめて得意なことをやろうとするのもありがちな話。
だが館山少年は違った。だってバリバリの負けず嫌いだから。
ローラースケートの鬼ごっこ遊びで負けると、悔しくて練習を繰り返さないと気が済まなかった。野球は、言わずもがな。三振しては泣き、やりたかったゲッツーの守備の練習も自分は見ているほう、ノックするほうに回されて悔しくて仕方がなかった。

ならば陰で努力するしかない。
コーチや両親に言われたわけではない。少年は自分でそう結論づけ、実行に移そうとした。
まずは走り込み。夜、マンション前の桜並木を走ることにした。1.5kmほどある距離をほぼ毎日のように。父が買い物に行くときはついていった。買い物の間に、バッティングセンターに立ち寄りたいからだ。空き地の雑草が伸びていたら、それをバットで切るようにして打った。壁当てもやった。家に戻れば、チャンネルをTVK(テレビ神奈川)に合わせて、大洋ホエールズのナイトゲームを見るのも日課だった。

そんな少年の意気込みに対して、両親は背中を押してくれた。

「父にも母にも感謝しています。2人とも“あれやれ、これやれ”とは言わなかったし、逆に“どうしたいんだ”って聞いてくれていましたから。父は設計士だったので自宅で仕事をしていました。だから夜、走っているとベランダから見てくれていましたし、空き地で雑草を切るときに付き合ってくれました」

流行だったファミコンは家になかったが、野球に関しては寛容だった。野球の本をねだれば、いつも買ってくれた。キャッチャーをやりたいと言ったら、両親は応援してくれた。

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二宮寿朗

にのみや・としお●スポーツライター。1972年、愛媛県生まれ。日本大学卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社し、格闘技、ラグビー、ボクシング、サッカーなどを担当。退社後、文藝春秋「Number」の編集者を経て独立。様々な現場取材で培った観察眼と対象に迫る確かな筆致には定評がある。著書に「松田直樹を忘れない」(三栄書房)、「サッカー日本代表勝つ準備」(実業之日本社、北條聡氏との共著)、「中村俊輔 サッカー覚書」(文藝春秋、共著)など。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」(不定期)を好評連載中。

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