2021.7.22
僕にだけ聞こえてくる音
逆さまの男の頭が、床に激突した。
僕は悲鳴を上げて、母親の部屋へ駆けこんだ。騒ぎを聞いた姉も、そこに入ってくる。
「だからね、気のせいだって言ってるでしょ」
二人はいつもの台詞をはいて、僕をなだめようとする。
「気のせいじゃない!」
この時ばかりは、僕も興奮して言い返す。母もつられて大声をあげる。
「仕方ないでしょ! あんた、あんな……大変な目にあったんだから。ショックでおかしくなってるだけなの!」
大変な目? なにを言っているのかわからない。きょとんとした僕の顔を、母と姉がいぶかしげに見つめてくる。
「……本当になにも覚えてないの?」
母は言葉を選びながら、一か月前の出来事を語ってきた。
その時、中学校から帰宅した僕は、飛び降り自殺の現場を目撃したというのだ。
うちのマンションから、一人の男が身を投げた。真っ逆さまに、僕のすぐそばへと落ちてきた。そして目の前の地面に激突した。
「だからそんな……ショックで変な幻覚を見たって、仕方ないでしょう」
そうだったかもしれない。よく思い出せないけど、そんな気もする。なにより、精神的なショックとした方が色々説明がつくし、意味不明な状態よりよっぽどマシだ。
「……あんたも落ち着いてくれば、だんだん心の整理も」
バアン!
すぐそばで、またあの音がした。一瞬ギクリとしたけど、すぐに気を取り直したので、周りを観察することができた。だから、母と姉が目を見開き、ぎゅっと顔をこわばらせたのを、僕は見逃さなかった。
──なんだ、二人も聞こえてるんじゃないか。
その夜からずっと、僕たちは三人、川の字になって寝るようにした。
幸い、音が鳴る頻度は、だんだん減っていった。三日に一度、一週間に一度と、忘れた頃に響くようになったので、なんとか我慢できた。
それでもこの現象がすっかり消えるまでに、三年はかかった。引っ越せばよかったとも思うのだが、父が残した借金のために、それもままならなかった。
三年後、母は再婚した。そこでようやく、皆でこのマンションを出ることができた。
それからというもの、僕は一度もあの音を聞いていない。
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