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「英語なんて勉強してなんになる!」娘を栄養士にしたい母との攻防戦 第14話 進路希望という名の絶望 

 それでも当然だが、親との対峙は避けられない。とうとう進路希望の用紙を学校に提出する日が来る。クラスのみんなはスムーズに先生に提出しているように見えた。美大を目指す友人もごく普通に美大の名前を書いて提出し、放課後は美術の先生からデッサンのレッスンを受けて、受験に向けて絵の練習をしていた。親との悶着なんて誰も口にしていなかった。  
 私はしばらく用紙を寝かせたあと、提出ギリギリになってから母に申し出た。努めて明るく「この大学行こうと思うんだ♪」と札幌にある文系の大学の資料を手渡し、「英語の勉強をしようと思って」と付け加える。この時はまだ、さすがに美大は反対されるだろうが、英語の勉強という何かしら広く役立ちそうな科目なら親も納得するだろうと期待していたのだ。ところが「はぁ?」とドスの効いた低い唸り声と共に「おめこんたら聞いだごどもね大学さ行がせるわげねえべ!? 英語の勉強? そんたもの勉強してなになんだ? 英語の先生が? 通訳が? そんたもの無理だど!? なれるわげねべ! そりゃ学校の先生だば好ぎなごどやれって言うよ? おめのごどなんか考えでねんだがら! そんなごと勉強したって就職さぎねの! なしてわがらねの!! そんたに英語勉強してんだばアメリカでもどごでも勝手にいげ! 金はださねえけどな!!!」と、母の機関銃で穴だらけの血まみれとなった。おいおい、学校の先生は私のことなんか考えていないって、それは言わない約束じゃないのか? しかも母は“学校のルールは守る派”で学校で禁止されているものはもれなく禁止だった。そんなあんたがここにきて手のひら返すのか。母はもっと酷いことも言っているが割愛する。
 しかも後日、栄養士に特化した女子大のパンフレットを持ってきてここに行けと言う。私のイマイチな偏差値よりさらに低い偏差値の短大だった。四大に入れたがっていた母が、私の選んだ札幌の大学を「わけのわからない大学」と怒り心頭していた母が、その大学より低い偏差値の短大を推してきた。もう母もわけがわからない。死んだ。私は死んだのだ。「終わった」と思った。とにかくこの状況で学校に進路希望の紙は出せない。提出期限は過ぎている。でももう、いいんじゃない? 希望の学校なんか行けないんだし、人生ここで終わってんだから進路希望の紙が出せないことなんてどうでもいい。

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 そうして学校に行っては「先生、進路希望の紙忘れました」というやり取りを1週間ほど繰り返し、家では一言も口をきかず、とうとう担任との面談の日を迎えた。この担任教師はアナウンサーの羽鳥慎一に似ており一部の生徒からは人気があった。しかし、体調の優れない時期だったのかもしれないが、受験生を抱えた割には休むことが多く、私はリスペクトしていなかった。なので進路の紙を出していないことを悪びれるでもなく、「おめ、進路どうすんだ?」と笑顔でお気楽なセリフを吐かれた時はイラつきを隠さず、「さあ」と憮然とした表情で答えた。すると先生はニヤニヤしながら「なに? 結婚が?」と言うのだった。当時も腹は立ったが、こんなことを言う大人は全く珍しくもないので、親戚のおっさんの戯言を受け流す時の言い方で「ハハッ」と鼻で笑い面談は終わった。進路の紙、受験票の提出、全部どうでもいい。ちょうど『17歳のカルテ』でも「どうでもいい」というセリフが大事な場面で使われていた。あの主人公同様、本当はどうでもよくないのだ。でも「どうでもいい」と思うことが唯一の抵抗で防御だった。我ながら無益な停滞しかやり方を知らず情けなく虚しく、本当は泣きそうだった。まさか自分の人生がこんなことになるとは。やりたいことが見つかって、そこに情熱を注ぎ、ひたすら邁進する日は来なかった。というか、たまに芸能人などが言う、「親の反対を押し切って家を飛び出す」ほどの情熱は自分になかったのだ。

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 しばらく家で会話のストライキを続けていたところ、ある日母が「梅子ちゃん」と機嫌がいい時の高い声を出し、「あのね、知り合いのお子さんでこの大学に行った人がいるんだけど、いい大学みたいよ?」と東京にある理系大学のパンフレットを持ってきた。また栄養士かと身構えると、文系学部のページを差している。学部名を見てもイマイチなんの勉強をするのか分からなかったが、とにかく理系科目で受験せずに済む学科らしかった。そして授業内容も経営学か経済学のようなものらしい。全く興味はないが、栄養士に特化した女子短大に行かされるより百倍いい。それと第二外国語の授業もあるらしい。私は英語以外の語学を勉強するのが密かな夢だったのだ。意外と、悪くねえな……と思いつつも、母の飴と鞭に素直に絡め取られるのは癪なので、極めて不満そうな態度を維持しながら了承し、進路希望の用紙を書いた。内心、このまま受験票が間に合わなかったらどうしようと心配していたので、ひとまず受験先が決まってホッとしてしまった。おそらく私のことだから、どうでもいいというポーズを崩せず本当にプーになって人生も投げていただろう。母としては、いずれ気が変わって栄養学科に編入することを期待しているらしく、いつでも編入していいからと付け加えていた。

 その後の数ヶ月は自分でも、表面だけ取り繕うパワーにびっくりするほどだった。こんな、心とちぐはぐな状態で望まない学科の推薦入試に臨むのだから勢いが必要だ。全く興味のない学科に行かされるということについて両親には罪悪感を持ってほしいため、家では「志望動機なんかどう言えばいいわけ?」と咎めるような口調を忘れず、しかし学校の面接練習ではハキハキ明るく志望動機を答えた。私がきっと反抗的な態度で来るだろうと高圧的に構えていた数学教師(この教師にはチョークを投げられたことがある)も、驚きの表情をしていた。文系クラスなので、面接練習をする先生や担任など、とにかくいろんな大人に「まさか冬野さんが、こんな分野に興味があったなんて」と驚かれ、その度に堺雅人のような感じのいい泣き笑い顔を作って対応した。だって、こんなところで反抗してる場合じゃないから。受験に失敗するわけにいかないから。東京でやっていけるか不安だし、私には地方都市くらいがちょうどいい気がするけど、でももう考えちゃいけない。失敗したらまた栄養士の攻防戦が行われ長期化する。もうそんな体力はないし、母に抵抗し打ち勝つ自信はない。もう、ここに人生がかかってるから。
 そして私は、見事推薦入試で合格し、早々と受験を終了した。後から知ったことだが、その学科は推薦で定員割れしていたらしいので、全員受かったんじゃないだろうか。

次回は7月17日(水)公開予定です。

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冬野梅子

漫画家。2019年『マッチングアプリで会った人だろ!』で 「清野とおるエッセイ漫画大賞」期待賞を受賞。その後『普通の人でいいのに!』(モーニング月例賞2020年5月期奨励賞受賞作)が公開されるやいなや、あまりにもリアルな自意識描写がTwitterを中心に話題となり、一大論争を巻き起こした。2022年7月に、派遣社員・菊池あみ子の生き地獄を描いた『まじめな会社員』(講談社)全4巻が完結。
最新刊は『スルーロマンス』(講談社)全5巻。

Twitter @umek3o

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