よみタイ

800万円借金して「ほおずき」栽培に手を出した農夫の末路

借りては返す終りのないローン地獄

 この時点で農協からの借り入れ金額がどれくらいまで膨らんでいたのか、正確な数字は彼自身もわかっていない。棚田の整備(基盤整備)のための補助金500万円を20年ローンで借りたのは義父だとはいえ、借金には違いなく、トラクターの借金だってまだずいぶん残っている。そこに食用ほおずきの失敗が重なった。農業に欠かせない農薬や肥料、農機具はいうまでもなく、農協が運営しているスーパーマーケット、Aコープで購入している食品やら日用品などの生活必需品にいたるまでおんぶにだっこ状態なのだから、農協へのツケは1000万円や2000万円ではきかないだろう。これが一般の家庭なら借金をめぐる夫婦喧嘩は茶飯事で「もうお米もないのよ。あんた、どうする気なの」「そんなこと知るか」と怒鳴り合ってるか、借金取りに居留守をつかいテレビも点けずひたすら沈黙を通すところだろうけれど、ところが、にっちもさっちもいかないほど家計が逼迫している実感はなかった。農協は、組合員である農家にはいつだって太っ腹で、積もり積もった借金がどれほどの額に達していようと、どうじゃ、お代官様に娘を差しだす決心はついたか、みたいなことは言わないし、露骨に返済を迫るようなヤボを言ってきたりも、まず、しない。少なくとも、この時点ではそうだったからだ。だから彼も、農協への借金がいくらあるのかなどと深刻に考え込んでしまうこともなかったのだった。

 戦後の食糧難の時代、食糧がヤミ市場に流れるのを防ぎ国民に平等に配給するため、米を政府に供出させる機関として、全農家を加入させ、戦時中の統制団体(=農業会)を改編してスタートしたのが農協(農業協同組合)である。政府が買い上げた米の代金は農協を通じて農家に支払われる仕組みで、そのため、農協には、他の協同組合には認められていない金を扱う窓口がある。米の代金は組合員の農協口座に振り込まれる仕組みだから、彼の通帳にいったんは金額が記載されるものの、ここからツケが差っ引かれていく。購入した肥料の代金、農薬の代金、毎月のガソリン代やAコープで購入の食料品をはじめ、彼が日に少なくとも二箱は吸うショートホープの分も含めた生活必需品いっさいの代金、もちろん借入金の返済分も引かれ、結果、彼の農協口座に残高はない。彼と農協の間でやりとりする金の流れは、たとえは悪いが「借りては返す終りのないローン地獄」のようなものだったかもしれない。ただ、それと決定的に違っていたのは――土地と家という資産ゆえかもしれないが――いくらでもツケはきいて、それでいてあこぎな取り立てはないという点だった。はたから見ればなんとも不思議な、当事者である農家にとってはありがたいこうした状況が一変し、農業を捨てて東京にでていくしかないと決断するのはもう少し先、2001年に小泉政権が発足してからの話になる。

 現金は手許に残らないが、それでもちゃんと生活が成り立っていくのは、農協組合員であればこそだった。そして、この生活を維持していく唯一の方法を彼はよく知っていた。農協の言葉には従うことだ。逆らわないことだ。負けの公算が大の博打かもしれないと本心では怯えても、農協の誘いに「嫌だ」とさえ言わなければ生活が維持できる。それが事実かどうかはともかく、少なくとも、当時の彼はそう思い込んでいたのだ。

「組合は、その行う事業によってその組合員および会員のために最大の奉仕をすることを目的とし、営利を目的としてその事業を行ってはならない」(農協法第8条)

 農協は総力をあげて組合員の生活を支援してくれるのである。日々の暮らしになくてはならないスーパーマーケット(Aコープ)やガソリンスタンドの運営を筆頭にして、トラクターのような大型農機具はもとより、乗用車も買えるし、損害保険も生命保険だって取り扱っている。組合員であれば何を買うにもキャッシュレス。冠婚葬祭もOKで、ほとんど〝ゆりかごから墓場まで〟なのである。農協口座の残高がどんなに寂しくても日常生活に支障をきたすことはなかった。

(以下、次回に続く)

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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