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800万円借金して「ほおずき」栽培に手を出した農夫の末路

「われも食用ほおずき、やらんか」

 1980年に大分県で始まった地域振興運動「一村一品運動」は、当時の県知事、平松守彦が旗振り役となって県内すべての市町村で実施されている。全国的に知られるブランドでは大分麦焼酎やカボス、関アジ、関サバなどがすぐに思い浮かぶが、この取り組みに名を連ねる大分県特産の品目は現在では300をはるかに超えている。一村一品運動の〝一品〟は、かならずしも一品という意味ではなく、峰田農協の管内では、ブランドの豊後牛や柚子加工品と並んで、ほおずき、きゅうりもあつかうようになっている。

 農協からその話が舞い込んだのは、香織といっしょになってから8年ほど過ぎた頃だった。当時の総理大臣、竹下登が発案した公共事業、各市町村に地域振興の名目で1億円を交付し、その金を使ってできた日本一長い滑り台とか巨大な吊り橋とか1億円の金塊とか村営キャバレーだとかが話題になった「ふるさと創生事業」と時期が重なる1988年、彼が40歳を間近にした年のことである。

「われも食用ほおずき、やらんか。有名な化粧品会社が買い取ってくれることになっている」

 農協の担当者はそう言い、「栽培した食用ほおずきは一粒6円で化粧品会社が買い取ってくれる」と続けている。文句なしの好条件、一粒で6円は、彼にしてみれば、うまい話だった。

 わざわざ「鑑賞用」と断りを入れなくても、「ほおずき」といえばオレンジ色の袋が実を包むあれのことで、食用があるのだとは聞いたことはあっても実物を見たことはない。南米ペルー原産とかヨーロッパが原産とかの説がある食用ほおずきは、ちょうどプチトマトのような大きさと格好をしていて、果肉をかじると甘みと酸味が口のなかで広がり、ヨーロッパでは古くから栽培されサラダなどに添えられて食されているのだと聞いた。袋状の殻に包まれている形は鑑賞用と同じだが、殻は枯れているのかと間違いそうなベージュ色で果肉の色は薄いオレンジ、幹の背丈は180センチほどにもなるらしいから鑑賞用のそれとは見た目からして別物である。栽培した経験はもちろんないし、彼の知る限り周辺の誰かが栽培しているとの話も聞いたことはない。にもかかわらず、農協からの誘いを受けた時点で彼の腹はすでに決まっていた。大金がからむだけにさすがに即答はしなかったものの、数日後には、農協に「やる」と返事をしていた。ほおずき栽培はお手のもので、彼が手がけたそれは浅草のほおずき市にも並んでいる。何とも頼りない話だが、その経験と自信が「やる」の唯一の裏づけだった。農協から仕入れる苗の値は、一株で4万円。仕入れたのは200株だから代金は800万円、ほかに専用のハウスも作った。必要な資金は農協系金融機関からの借り入れでまかなっている。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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