2023.7.13
動物の世界にも「児童虐待」が存在する?! 子殺しの進化心理学
実子殺しと親の投資理論
これまで述べてきたように、非血縁個体による子殺しについては、今日では適応的な行動として説明できます。しかし、親による実子殺しや育児放棄についてはどのように説明されるのでしょう?
哺乳類や鳥類のように親が育児をするのが普通である動物において、自分の子どもを熱心に育てる(育児に多くの労力を費やす)という性質は、次世代に遺伝子を残すうえで明らかに有利なものに思えます。親からすると、自分の子どもをまっとうに育て上げないことには、遺伝子を次世代に残すことはできません。この事実から、親は子どもを育てることに関して、いつでもどこでも無条件に全力で取り組むのが当然、と考えるひとがいても不思議ではありません。
こうした考えに待ったをかけたのが、アメリカの著名な進化生物学者であるロバート・トリヴァースです。トリヴァースは血縁選択説(注9)をアメリカに導入した先駆者の一人で、1970年代から動物行動に関する重要な理論をいくつも提唱しています。代表的なものの一つが親の投資理論です(注10)。今日、この理論は人間行動の進化においても重要なものと考えられています。
トリヴァースは、遺伝子を次世代に残すという観点から、子育てには親にとって利益だけではなくコストもあることを指摘しました。子育てには、子が成長し、親である自分の遺伝子を引き継いでくれるという正の側面(利益)だけではなく、将来の自分の繁殖機会を失わせるという負の側面(コスト)もあるというのです。生涯の繁殖成功(次世代に残す子どもの総数)を最大化するために、親は子育てに関する利益とコストの兼ね合いが最適となるような行動を選択するだろう、とトリヴァースは予測しました。彼は経済学の用語を用いて、子育てに労力を費やすることを「投資」と表現したため、この考えは親の投資理論と呼ばれています。親が一生涯に子育てに費やすことのできる時間や労力は有限です。現在の子(第一子)に対する投資量(子育ての労力)を増やすことは、その子の生存率を高める効果がありますが、その見返りとして、まだ生まれていない将来の子(第二子)に対する投資量を減らすことになります。第一子と第二子との間には、片方への投資を大きくすると他方への投資が小さくなってしまうというトレードオフの関係が成立します。
トリヴァースの親の投資理論に基づくと、親がいつでも無条件に子育てに投資するというわけではないことが理解できます。親の立場からは、子育て環境が劣悪な状況においては、目の前にいる子(第一子)を育てることは取りやめて、その分の時間や労力を、望ましい子育て環境を新たに獲得するために費やし、将来の第二子の養育の成功確率を高めるようにしたほうが、生涯の繁殖成功を最大化できる可能性があります。例えば、パートナーの協力が得られず、一人での子育てが非常に困難な状況にいる母親はそうしたケースです。こうした母親にとっては、現在の子(第一子)の養育よりも、新たなパートナーの獲得に労力を振り分けたほうが、生涯の繁殖成功が高まる可能性があり、現在の子を育児放棄することが適応的な行動になり得ます。
動物の世界で親による実子殺しはまれですが、ゼロではありません。親による実子殺しや育児放棄が生じる背景には、上記のようなトリヴァースによる親の投資理論が関係していると考えられます。
記事が続きます
ヒトにおける子殺し
これまで述べてきたことから、動物の世界において子殺しは場合によっては生じうることが分かります。子殺しに関する理論的研究も進んでいます。こうした子殺しに関する知見はヒトに対しても当てはまるのでしょうか?
進化の観点から考えると、血縁者間は非血縁者間よりも協力行動が生じやすく、非血縁者間は血縁者間よりも攻撃行動が生じやすいと予想されます。ヒトの子殺しについて、この予想と整合するデータが得られています。
家庭内で児童虐待の被害を受けた子の割合を、血縁のない子(継子)と血縁のある子(実子)との間で比較した多くの調査から、継子のほうが高い確率で虐待を受けている事実が確認されています。例えば、1970年代から80年代のカナダの調査において、家庭内での子殺しの発生率は、両親とも実親である場合と比べて、継親による場合のほうがはるかに高率で、特に0~2歳児においては約70倍という値でした(注11)。典型的なのは、母親の再婚相手である男性により継子が殺されるケースです。こうした、実親よりも継親の場合に児童虐待が生じやすい傾向はシンデレラ効果と呼ばれており、非血縁者間は血縁者間よりも攻撃行動が生じやすいという進化生物学の予想と一致しています。
記事が続きます