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差別心や嫌悪感を生み出す〈行動免疫システム〉とは何か──生物学の知見で「差別」に対抗する

自然主義の誤謬の実例=優生学による悲劇

自然主義の誤謬と関連の深い思想に優生学があります。これは、遺伝構造を改良して人類の進歩を促進しようという思想で、イギリスの人類学者フランシス・ゴールトンが1883年に提唱したものです。19世紀に自然科学は大きな進歩を遂げました。人類は科学によってこの世界のすべてを解明し、その知見によって自然を管理することが可能となるという見方が広まりました。環境問題に直面する21世紀の私たちからすると、あまりに楽観的に思えますが、当時はそれが一つの先進的な考えだったのです。こうした進歩的な世界観は、自然を計画的に管理することでより良い社会を作り出そうという思想にたどり着きます。優生学はこうした思想を自分たち人類に適用したものです。こうして、人類にとって良かれと考え、善意で優生学に取り組む人たちが出現します。

20世紀になると、多くの国が優生政策を実施しました。優生政策とは結局のところ、優秀な人間の割合を増やすために劣った性質を持つ人間を繁殖させないようにする政策です。その結果、深刻な差別や人権侵害が発生します(注7)。その最たる例が、ナチスによるホロコーストです。しかし、現代の価値観に照らして明らかな人権侵害となる政策を実施していたのはナチスだけではありません。アメリカや日本を含む多くの国も、かつては精神疾患やハンセン病などの患者に対して強制断種(不妊手術)を行っていました。これらの政策は合法でした。こうした、悲劇的ともいえる深刻な差別を生み出した優生政策は、優生学の思想を基盤としていました。人類の進歩と言えば聞こえは良いものの、優生学の思想の実態は、「劣った個体は淘汰たされるのが自然である。自然であるということは、それが正しいということである」というもので、まさに自然主義の誤謬そのものです。現代の価値観では正当化することはできません。

差別は世界的に減少傾向

ヒトの差別心に遺伝子が関係しているとなると、「人間は差別をするのが当たり前なんだ、それはもうどうしようもないことだ、差別は私たちの宿命だ」というように考え、絶望する人が現れそうです。しかし、それには及びません。確かに、前回の連載で紹介した行動遺伝学の研究で示されているように、調査されたヒトの心理や行動のあらゆる性質に遺伝子の影響が確認されていることは事実です。しかし、同時に行動遺伝学は心理や行動に関するあらゆる性質に環境が影響することも明らかにしてきました。これにより、教育や社会制度などの環境を整えることによって、差別を減らすことができるのではないか、という希望が生まれます。

実際に差別は着実に減少しているというデータがあります。アメリカの著名な心理学者であるスティーブン・ピンカーは、著書『21世紀の啓蒙: 理性、科学、ヒューマニズム、進歩』(2019年、草思社)のなかで、人種差別、民族差別、 同性愛差別などの差別全般が世界的には減少傾向であることを示しました。1950年代には世界の半数の国に人種民族差別的な法が存在しましたが、2003年にはそのような法をもつ国は世界の1/5以下となりました。女性参政権のある国は1900年にはニュージーランドだけでしたが、現在では男性に参政権があるすべての国で女性参政権が認められています。同性愛行為を犯罪としない国は、20世紀初頭には世界で10数か国にすぎませんでしたが、2016年には90か国を超えるまでに増加しました。

時代による解放的価値観の変化(推定、世界の文化圏、1960-2006)出典:スティーブン・ピンカー、『21世紀の啓蒙 上: 理性、科学、ヒューマニズム、進歩』(2019年、草思社)、図15-7
時代による解放的価値観の変化(推定、世界の文化圏、1960-2006)出典:スティーブン・ピンカー、『21世紀の啓蒙 上: 理性、科学、ヒューマニズム、進歩』(2019年、草思社)、図15-7

ピンカーは、こうした事実の提示に加えて、世界的な差別の減少をより客観的に示すデータとして、世界価値観調査における解放価値の値の推移を紹介しています。 解放価値とは、自由と平等を重んじる価値観のことで、その程度を数値化する手法も開発されています(注8)。 1960年から2006年の 調査データに基づいて、解放価値の値を地域別に示したグラフ(上図)から、 すべての地域で解放価値が上昇していることがわかります。 地域間比較では最も値の低いイスラム地域でも、2006年には1960年のヨーロッパ地域を上回る値となっています。

また、こうした解放価値に影響する因子を分析したところ、解放価値に対する有効な予測因子は世界銀行の「知識インデックス」であるという結果が得られました(注9)。世界銀行の知識インデックスとは、教育・情報アクセス・科学技術的生産性・法の支配についての指標です。このことからピンカーは、知識がモラルの向上を導くという啓蒙運動の考え方は正しいと述べています。

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小松正

こまつ・ただし
1967年北海道生まれ。北海道大学大学院農学研究科農業生物学専攻博士後期課程修了。博士(農学)。日本学術振興会特別研究員、言語交流研究所主任研究員を経て、2004 年に小松研究事務所を開設。大学や企業等と個人契約を結んで研究に従事する独立系研究者(個人事業主) として活動。専門は生態学、進化生物学、データサイエンス。
著書に『いじめは生存戦略だった!? ~進化生物学で読み解く生き物たちの不可解な行動の原理』『情報社会のソーシャルデザイン 情報社会学概論II』『社会はヒトの感情で進化する』などがある。

Twitter @Tadashi_Komatsu

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