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受賞した男・ミシマ──仲間内から〈デビュー〉が出るとどうなっちゃうのか?【新人賞コンプレックス 第7回】

新刊『花ざかりの方程式』や『理系の読み方』で注目を集める大滝瓶太さんによるエッセイ連載!
小説家としてデビューするまで「8浪」かかったという大滝さんは、現在でも「新人賞コンプレックス」を抱えているそうです。
そんな大滝さんが、強烈な「新人賞コンプレックス」を抱えた人間たちを描く、前代未聞のエッセイです。

前回、「ワナビ同士でつるむのはアリなのか?」という問いを考えました。
今回は登場するのは、「受賞した男・ミシマ」です。彼が受賞したことで何が起きたのでしょうか?
イラスト/岸あずみ
イラスト/岸あずみ

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 デビューしてもう何年も経つのにまだ新人賞の話ばかりしている恥ずかしい作家がいる。私である。
 前回、小説界隈の〝ワナビ〟やそれにまつわる自意識、そしてそのコミュニティについて私の知るところを紹介した。私は小説を書きはじめて16年(2026年現在)であるが、この沼に浸かってから界隈の雰囲気はずいぶん変わったと感じている。根本的なところをいえば、明らかに小説を書くひとの数が増えた。その要因として小説投稿サイトの盛況、SNS社会の活性、コロナ禍のSTAY HOMEとパッと思いつくだけでもゴロゴロある。最近であればAIのアシストも重要な要因だろう。事実、コロナ禍以降は各種新人賞への応募数は増加傾向にあると聞くし、かつて東京流通センターで牧歌的に開催されていた文学フリマは今や東京ビッグサイトに進出した。
 小説を書くひとが増えるのは小説家として素直に嬉しい。
 小説に興味を持ってくれているひとがたくさんいるのだという一番の証拠でもあるし、商売人的な視点からすれば有力な「本を買ってくれる層」でもある。また「小説を書くことでしかわからない感覚」というのがあり、私などはその感覚をフックした実作や文芸批評をよく書いているのだが、そうしたニッチなテーマに強い関心を示してくれる読者というのもこのひとたちである。
 
 ここで少し昔話を許していただきたい。
 私は高校生の頃、「小説を書いているヤツはイタい」と信じて疑わなかった。隣のクラスにノマ君という独特の雰囲気の子がいた。体育の授業が彼のクラスと合同で、体育館で授業が行われる際に彼は直前の休み時間に積み重ねられたマットにいつもローキックを打ち込み続けていたのをよく覚えている。鬼気迫る表情で、なにかをブツブツ言いながらひたすらマットを蹴り続けていたのだが、それを見て私は素朴に怖いと思った。彼は文芸部に所属する唯一の男子生徒で、他人とつるんでいるところは一度も見たことがなく、当時の私が「小説書き」に悪いイメージを持っていたのはおそらく彼の印象が強すぎたことによる。
 そもそも頭のなかで現実とは異なる世界のことを考え、それをかたちにする行為が気持ち悪い。それを誰かに読ませるとか、それで商売をするとか、なに夢見てんだと本気で思っていた。マンガであれば「絵」というひと目で〝すごい〟と思える技術があるので許せたが、義務教育を受けていれば誰でも書ける「文章」を〝すごい〟と思ったことは一度もなかった。私にとって「素人の小説書き」とは、〝すごい〟技術を身につける努力を放棄した怠け者が自分の〝才能〟を世間に肯定してもらいたがっている愚か者でしかなかった。しかしその5年後、他ならぬ自分自身がその「キモいヤツ」になっていたのである。
 自分の頭のなかにある現実とは異なる世界を文章にして読ませることが仕事になった今、私は折に触れてノマ君のことを思い出す。彼と会話らしい会話をしたことは一度もなく、彼を一方的に卑下していた当時の私にはわかりえなかったことが20年近い時間差を経て、〝理解〟とは言わなくても〝実感〟のようなものがじんわり湧き上がってくるのを感じる。高校では年に1度、学校の文集を作るのだが、実家で本棚を整理しているとそれが出てきた。懐かしくなってページをめくってみると、文芸部の活動報告としてノマ君の短編小説が掲載されていた。男女3人のグループが高校3年間で友情を育み、それぞれの進路へと旅立っていくという道徳の教科書みたいな話で、何か批評的な言及ができるわけでもない凡作の極みのようなものだ。しかし、私は20年前の自分と対話するような感覚にとらわれたのだった。
 パッと見、親しい友人がいるわけではなさそうだったノマ君が友情に憧れてこの話を書いたとか、文芸部で何か原稿を出さねばならず、学校文集にありそうなものを適当に用意しただけなのかを邪推することになんの意味もない。私が強く感じたのは、「そこにひとが書いた文章がある」という、ただ単純な事実だった。1万字くらいの分量だったが、現実に起こったわけでもない話についてそれだけの分量の文章を書くなんて〝誰でもできることじゃない〟のだ。それなのにできたからといって〝才能〟として評価されるようなものでもない。ノマ君がこの小説を書けてしまったのはなぜだろう? 20年前の私は承認欲求のえげつない拗らせゆえのキモさを感じていたわけだが、小説家になった私はうまく言葉を見つけられない。小説を書くという行為が生活の中で当たり前になり過ぎてしまったのだ。ノマ君の生活で小説がどれだけ重要だったかによらず、小説を書く人間というのは「小説を書く」という行為を特別に思わない。私は小説を書くことによって、過去の自分が抱いていた差別的ですらある偏見を見直すことになった。

「小説を書くひとが増える」というのは、潜在読者が増えるとか文芸市場が活性化するとかだけじゃない、もっと見えにくいところで大きな変化をもたらしているのではないかと私は考えている。
 ひとは一度小説を書くとまったく違う人間になる。
 そしてこの不可逆な変化を他者にもたらす小説──つまり、「ひとに小説を書かせる小説」こそ傑作なのではないか。無論、ひとによって「小説を書きたくなる小説」は違うけれど、違うからこそ「どんな小説でも他人に小説を書かせる力を秘めている」ということでもある。これこそが小説の魔力で、私にとっての運命の本は川上未映子『先端で、さすわさされるわそらええわ』だった。
 新人賞に応募していた時期、私はこの魔力に導かれるまま小説沼に肩まで浸かっていたわけだが、その地獄で小説に狂い倒した連中と意気投合し、いまなお親しくしている。このメンバーには第3回に登場した「デビューしてもまだ新人賞に応募する男・リューノスケ」や、後述する「若くして新人賞で最終候補入りするもそこから何年も苦渋を舐めた男・オサム」など、新進気鋭の小説家として爆裂活躍中の者もいる。
 今回は我々のコミュニティのなかで一番先に新人賞を受賞し、純文学界のトップランナーとなったミシマを紹介したい。

良い書き手は「小説が読める」

 2013年、とある小説投稿サイトがオープンした。
 このサイトは純文学の新人賞を受賞した作家が運営していたこともあり、純文学の新人賞に応募している書き手が多く集まった。いきなり余談になるが、これは何気に偉業である。今も昔もほとんどの小説投稿サイトはライトノベル系の投稿が主流で、純文学作品はもっとも相性が悪い。そもそも「他人に読んでもらいたい」という願望さえない書き手も多いジャンルであり、インターネットに出てくることさえ少なかった。そんな彼や彼女らの興味を惹き、作品をインターネットに引き摺り出させたのは、運営者のカリスマ性ゆえだろう。
 そのサイト内で派手に目立ち、ランキング1位に君臨していたのが第3回で登場したリューノスケで、私はといえばプロフィールに「A新人賞三次選考通過」と掲げて適当な短編を数本アップし、「さて。お手並み拝見と行きます、か」と見(ケン)にまわり、「そこそこデキるな」と感じた作品に誉めているのか貶しているのかよくわからない文学性に満ちたコメントをつけていた。そのなかで私が一番気になっていた存在がミシマだった。
 ミシマは自身の情報についてはプロフで一切開示せず、いくつかの短編をアップしていたが、他者の作品へのコメントを積極的におこなっていた。私が興味を持ったのは彼の批評眼と文体だった。独特の角度から作品に切り込み、そしてそれを語るナラティブが確立されていることから「このひとは小説が読める」と直感した。
 この当時から今日に至るまで、私はたくさんの「のちに作家になった者」を見てきたが、彼ら彼女らに共通する特徴がひとつあり、無理矢理でも言葉にするなら「小説が読める」に尽きる。それは単に「書いている内容を正確に読める」という意味ではない。むしろ誤読であっても構わないケースさえある。私が提唱する「小説が読める」とは、「独自の文学的土壌をもち、そこに根ざした分析ができる」ことである。文学的土壌──つまり、一定の読書、あるいはその代替となる経験に根ざした価値観は一朝一夕で得られるものではない。小説というのはとにかく時間がかかる。読むのもそれなりにかかるが、書くとなればもっとだ。長い時間をかけてゆっくり深く考え続ける方法を身体が知っておく必要があり、その基礎力となるのがこの土壌だ。1作2作書いて燃え尽きるのではなく、この先何10年も新たな挑戦とともに小説を書き続けるには、なによりまず「小説が読め」なければならないのである。
 私がミシマに注目していた理由があった。そのとき私は原稿用紙250枚ほどの「渾身の1作(第4回の〝びんちゃんのアレ〟参照)」を新人賞に応募したところだった。制作に2年ほど費やしており、この小説の下地となった習作がA新人賞の3次選考を通過していたのもあって、応募すればまず間違いなく受賞するだろうと確信していた。懸念していたのは〝文学的にあまりに高度〟という点に尽きる。軟弱な下読みやボンクラ編集者、権威にのさばった選考委員の怠慢を何より恐れていた。そこで「自分と同等の〝小説力〟を持つ奴ならどう読むか」を知りたかったのだ。優れた書き手に認められるなら、たとえ雑魚に落とされたとしても溜飲は下がるだろう。
 そうして私はミシマにコンタクトをとり、その渾身の一作を読んで感想をいただきたいと打診した。ミシマはそれを快諾してくれて、数日後、彼から来たメールには私の小説を絶賛する感想と、今度は自分の小説を読んで欲しいという打診があった。

仲良くなれる書き手とは?

 互いの小説を読み合ったあと、「他にアマチュアでおもしろいひとは誰か」という話題になった。当時ミシマは例の新設小説投稿サイト以外ではほとんどアマチュア作品を読んだことがなかったが、〝小説投稿サイトの渡り鳥〟であり〝SNSの番人〟だった私は「書けるアマチュア」と交流するのがちょっとした趣味でもあった。そこで私はミシマにふたり紹介した。
 ひとりは高校生の頃、新人賞応募作を文芸誌編集者に「これは編集部への果たし状か?」とコメントされた反骨の文学者・ケンザブロー。彼は私より五歳ほど若く、言語表現全般について深い研究と試行錯誤に裏打ちされた緻密な作風だ。その徹底は凄まじく、並の小説書きが彼の真似をしようとすると1文字も書けずそのまま固まって人生を終えるしかないほどである。20代の頃の私はケンザブローの激しく迸る才能とストイックな取り組みに脳天を叩き割られ、「言語表現としての小説」という現在に至る自分の軸を形成するほどの影響を受けた。彼はこの「果たし状」と呼ばれた作品のほか、長編の前半部分だけで新人賞最終候補になった小説などをネット公開しており、私は仲良くなった小説書き全員に「世界が変わるから絶対読め!」と推しまくっていた。あまりの難解さからほぼ全員に「ようわからん」と言われていたのだが、ミシマならわかってくれるのではないかとピンとくるものがあった。そこで彼に薦めてみたわけだ。この直感はドンピシャで、ミシマはこれを「2010年代日本文学の傑作のひとつに数えられる」と高く評価した。
 もうひとりはケンザブローと同世代の書き手で、THE 芸術家のケンザブローとは対照的に文学性とエンタメ性の両方を兼ね備えたスター性の塊・オサム。私が彼を見つけたのは某新人賞の予選通過者リストだった。彼はケンザブローが最終選考に残った文学賞でその一歩手前で惜しくも落選していたのだが、作品のタイトルに度肝を抜かれ、思わずTwitter(現・X)でツイート(現・ポスト)を検索してしまった。すると予選通過報告ツイートをしており、私はすぐさま彼にDMを送り、通過作を読ませてもらった。『うんこちんこちんこうんこ』と題されたその小説は、「うんこちんこちんこうんこ」というタイトルで「うんこ」も「ちんこ」も出てこない小綺麗な小説を書こうとして失敗し続けるメタフィクションで、舞城王太郎と木下古栗のハイブリッド文体でボルヘスをやっているような小説だった。私はもちろん仲良くなった小説書き全員に「世界が変わるから絶対読め!」と推しまくっていた。彼の作品をつまらないと言った人間はひとりもおらず、ならミシマはどう読むだろうと気になって読んでもらった。明らかにセンスのあるひとじゃん、脱帽! 的なことを言っていた。
 私とミシマが密に連絡を取り合うようになったのは、全力で書いた小説を互いに評価し合い、かつ共有できる小説観があったからだろう。小説の基礎力として「読み」があると前述したが、この基礎力への信頼は「小説書きが小説書きとしてコミュニケーションをとる」上で不可欠であるとも思っている。小説書きは、実力をリスペクトしている者としか仲良くなれない。
 表面上、〝人間〟として親しく付き合うことは可能だが、〝読み〟への信頼がない人間にはわざわざ自身の小説観を開示したりはしない。話したところで「どうせわからない」のが目に見えているからだ。人間として他者の心を真に理解することなどできないのと同様に、他人の小説観を完全に理解することなどそもそもできやしない。ただ、理解はできなくとも、一部共感したり、寄り添うことならできる。小説は、その深みを追い求めるといずれ誰にも理解できない領域に達することになる。それは「世界で自分しか考えたことのないこと」であり、運がよければ作品として結晶化されたときに「新規性」として評価されるかもしれない。しかしその未開の領域を探索するには、相応の筋力と技術がいる。それが伴わない者との小説に関する会話は成立しない。相手にわかるように語るとは、浅い領域にある言葉だけで語ることであり、真に切実なのは「そうとしか語れないこと」なのである。これについて、ミシマはよく「批評性がある」「〝鬼〟の作品」「〝念〟が使える」という言葉で指摘していた。用例として「おもしろいけれど批評性がない」などがあり、この「批評性」や「鬼」や「念」という言葉には独特のニュアンスと含みがあるのだが、そこに読みどころがあるかどうかを重視していた。
 ともあれ私が小説に求めるものとは「そうとしか語れないこと」であり、ミシマが言う「批評性」である。そして同業者ともし心を通わせることができるとすれば、そうしたことが許容される場所以外にないだろう。最悪、互いになにを言っているかまったく理解できなくても、その語りの切実さは共有しえて、それは「小説を読む」ことによってのみ耕される土壌があってのことである。同時に、それを持たない者に対して表現者という生き物はひどく残酷である。

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大滝瓶太

作家。1986年生まれ。兵庫県淡路市出身。京都大学大学院工学研究科(博士後期課程)を単位取得満期退学。2018年、第1回阿波しらさぎ文学賞を受賞。2023年、初のミステリー作品にして単著デビュー作『その謎を解いてはいけない』を刊行。他の著書に『花ざかりの方程式』、エッセイに『理系の読み方』。最新刊は『口笛吹きと音楽の犬』。

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