2025.6.10
一通のメールが、どん底だった私を翻訳の世界に引き戻してくれた 第10便 山あり谷ありの人生
クォン・ナミさんから村井理子さんへ
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理子さんへ
お返事、どうもありがとうございます。
そうですね、つい先日まで「春なのに、どうしてこんなに寒いの?」と思っていたのに、もう夏のような暑さですね。季節の移ろいの早さに驚かされます。真っ青にきらきらと輝く初夏の琵琶湖の水を想像するだけで、心がすっと澄んでいくような気がします。
さて、「翻訳家ふたりの往復書簡」も最終回を迎えましたね。
異なる国の翻訳者同士が公開でメールをやりとりするというこの企画は、大げさかもしれませんが、世界的にもほとんど例がないのではないでしょうか。私たち、けっこうすごいことをやったんじゃないかな、と思っています。
理子さんがこれまでの歩みを振り返ってくださったことで、まるで昨日のことのように、当時の気持ちが鮮やかによみがえってきました。ちょうど一年前の今頃、この企画のお話をいただいたときのことが、はっきりと思い出されます。
それで、当時いただいた理子さんのメールを改めて探してみました。
「『往復書簡』はいかがですか?(略)韓国文学が大ブームの今、ナミさんのファンは大喜びされるのではと思います。ぜひご検討ください。そして、お互いに書き合って、まさに〝褒め殺し状態″になるかもしれませんが」
このメールを受け取ったときに心臓が死ぬほどドキドキしたことは、第1便にも書きましたね。あの日の衝撃的な喜びは、今でも忘れられません。その後、公開でも個人的にも理子さんとメールをやりとりしましたが、理子さんにお便りを書くことはいつも楽しかったです。
また、『よみタイ』での往復書簡を通して、読者のみなさんにも私の話が届いたことは 本当にうれしい経験でした。なぜか日本語で書くと、韓国ではなかなか語れなかった正直な話が自然と次々に出てきます。ウェブメディアなので韓国の読者にも読まれているはずなのに、私はまるで、雪の中に頭を突っ込んで「誰にも見られていない」と思い込んでいるキジのようなものだったんですね。そんなふうに書いていたから、気がついたら韓国では話したことのないようなことまで、素直に書いてしまっていた気がします。そのため、『よみタイ』に書いた話の多くは、実は韓国ではほとんど公表していないものばかりになりました。
それに、理子さんがさまざまなメディアで私や本のことを紹介してくださったおかげで、私自身、本当に多くの恩恵を受けてきました。
心から感謝しています。ただ、これ以上書いて褒め合いまくると、読者のみなさんに「この二人、何してるの?」と思われてしまいそうなので、この続きはまた別の機会に……(笑)

さて、そうです。私は今、神楽坂にいます。
今年の初め、こんな考えが頭をよぎりました――「日本文学を訳しているのに、こんなにも日本語の会話が下手くそなんて」。旅行以外では日本語で会話する機会があまりなかったため、日常生活で不便を感じることはありませんでした。ですが、昨年『翻訳に生きて死んで』が出版され、神保町でのトークイベントに参加したとき、その現実を痛感しました。限られた語彙の中でしか答えられないことに、もどかしさを覚えたのです。
それで、「今からでも遅くない、勉強しよう!」と思い立ち、すぐにネットで調べて、日本語学校の2ヶ月コースに申し込み, 滞在先も契約しました。我ながら、ずいぶん衝動的なナマケモノだと思います。そんなわけで、日本で老学生の生活を楽しんでいるところです。楽しくてたまらない授業が終わると近くのスタバやカフェで翻訳やエッセイの仕事をやっています。贅沢三昧だと思います。
理子さんもおっしゃっていましたね。
「ナミさんの人生も想像以上にダイナミックでした。でもナミさんは、そんな大波をザブザブとたくましく泳ぎ、娘さんを育て、そして数多くの日本文学を韓国の読者に届けてきて下さったんですね」
理子さんも私も、メディアを通して自分の話をたくさんしてきたように見えて、実は語ることのできない、誰にも言えない苦労や痛みを抱えていますよね。誰にも明かさなかった苦労に、自分でそっとご褒美を手渡すようなこの瞬間が、言葉にならないほど愛おしくて、胸がいっぱいになります。きっと、理子さんにも、そんな時間が訪れることでしょう。
それでは今度こそ、ビールを飲みながらお話ししましょう。毎回ビールの話をしているので、大酒飲みと思われるかもしれませんが、いや、私、たしなむ程度です。
拙い日本語のメールを読んでくださった「よみタイ」の読者のみなさまにも、心から感謝申し上げます。これからも日本で紹介される私の文章を温かい目で見守っていただけると幸いです。どうもありがとうございました。
ナミ

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*本連載は今回が最終回です。ご愛読いただき、ありがとうございました。
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