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人間は簡単にはこの世を去ることはできない 第9便 終活前の生活の整理

クォン・ナミさんから村井理子さんへ

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理子さんへ
 
 お便りありがとうございました。琵琶湖の絶景をバックに、洗濯物やペットボトル、ビール缶までが空を舞うなんて……まるでコメディ漫画のワンシーンみたいで、思わず笑ってしまいました。
 ソウルでも桜の季節が過ぎ、街路樹はやわらかな新緑に包まれています。今年の春は例年になく寒く、天気も不安定でしたね。雨に打たれ、雪やひようにも耐えながら、それでもけなに咲いていた桜を見て、人も花も、それぞれの試練に向き合いながら生きているのだなと、しみじみ思いました。

 ハリーが旅立って、もう一年が過ぎましたね。
 ハリーの大ファンだった私は、Xで訃報を知り、あまりのことに思わず理子さんにメールを送りましたよね。実際に会ったことはなかったけれど、大切な推しを失ったような気持ちでした。他人の私でさえあんなに悲しかったのだから、ご家族はどれほど辛かったことでしょう。きっと今頃、ハリーは天国で、お気に入りの長〜い棒をくわえて、元気いっぱい走り回っているでしょう。
 今は、新しい家族のテオが、その悲しみを包み込んでくれているようでなによりです。

 今日は、私の愛犬だったナムのことを、少し書かせていただこうと思います。
 ナムは、娘と私にとって初めて迎えた犬で、娘が小学五年生のときに家族になりました。
 私はもともと犬が苦手だったのですが、締め切りに追われる毎日で、机に向かう私の背中ばかりを見て育つ娘がびんで、思い切って迎えることにしたのです。わんこを飼うことは、娘の長年の願いでもありました。
 あのときのナムは、生後わずか四十五日。
 本当に小さくて、ぬいぐるみのように愛らしいブラックのシーズーでした。
 犬に触れることさえできなかった私も、ナムと出会ってから三ヶ月も経たないうちに、すっかり心を奪われて、娘がもう一人増えたような気がしていました。娘の思春期も、受験や就職活動に揺れた日々もナムがいてくれたからこそ、私たちは笑顔を取り戻すことができました。その小さな体で、ナムはずっと私たちの心を支えてくれていたのだと思います。
 ところが――十二歳のある日、網膜変性症と診断されました。そしてほどなくして、視力をすっかり失ってしまいます。私たち母娘は、毎日のように涙を流しましたが、ナムは見えない世界に少しずつ馴染んでいきました。やがて白内障も進み、瞳は白い碁石のようになり、お散歩に出かけるとみんな怖がりました。
 それから二年後、目は見えなくても元気に過ごしていたナムに、思いがけず今度は肝臓癌という診断が下されます。そして半年後、ナムの誕生日を穏やかに祝った、その翌日、ナムは静かに虹の橋を渡っていきました。幼い頃からずっと恐れていた「あの日」が、ついに訪れましたが、不思議と、悲しみはありませんでした。ナムと過ごした日々があまりにも幸せだったからこそ、その別れもまた、あの幸せな日々の静かな続きのように感じられたのかもしれません。ともに過ごした時間の長さに関係なく、惜しみなく愛した者は、その後、悲しみに囚われなくてもいい――そんな思いを伝えたくて、私は『ある日、心の中にナムを植えた My Dog’s Diary』という本を書きました。旅立って五年経った今も、ナムは私の心のなかで、優しく息づいています。きっとハリーも、理子さんとご家族のなかで、永遠に生き続けていると思います。

クォン・ナミさんの愛犬、シーズー犬のナム(韓国語で「木」の意味)さん
クォン・ナミさんの愛犬、シーズー犬のナム(韓国語で「木」の意味)さん

 話は変わりますが――『兄の終い』の映画化、本当におめでとうございます! 韓国の読者レビューでも「まるで映画のようだ」という声が多かったのですが、ついに、それが現実になりましたね。私もこの本を読み始めたとき、先が気になってページをめくる手が止まりませんでした。映画もきっと、そんなふうに引き込まれる作品になるに違いありません。
 映画化の話を聞いたとき、どんなお気持ちでしたか? 私は「えっ、柴咲コウにオダギリジョー!」と、思わず声が出てしまいました。韓国での公開が、本当に楽しみです。
 理子さんの亡くなられたお兄様のお話を聞いて、少し複雑な気持ちになりました。ご存じのように、私も兄と絶縁状態にありまして。兄が幸せに暮らしていればまだしも、理子さんのお兄様のように生活が厳しい状況で、縁を断っていても、心のどこかで気がかりなものです。まあ、私もいつかは、理子さんのように後悔する日が来るのでしょう。私たち、こんなところまで似なくてもよかったのにね。

 終活ですか。「〜活」という日本語を翻訳するたびに、訳注を添えざるを得ません。韓国ではあまり使われない表現だからです。「就活」はある程度通じますが、「婚活」「妊活」「朝活」「推し活」「腸活」となると、翻訳者泣かせですね。
 それでも、「終活」という言葉だけは日本から伝わってきて、最近では韓国でもよく耳にするようになりました。人生百年時代を迎え、「ウェル・ダイイング」への関心も高まりつつあります。
 私自身も、少しずつ身の回りの物を減らそうとは思っているのですが、そう思うばかりで、なかなか行動に移せずにいます。「そのとき」はまだずっと先のような気がして、つい先延ばしにしてしまうのかもしれません。
 理子さんが「私も、ナミさんのように、ノートパソコンを持って、さらりとよその国で仕事をしてみたい」とおっしゃってくださって、なんだか自分がすごくかっこいい暮らしをしているみたいで、少し照れてしまいました。私はもともと自宅でも、リビングの小さなテーブルでノートパソコン一台で作業しているんです。だから、ただそのまま、それを持って出かけているだけというか。普通は翻訳者の皆さん、書斎で大きな机にパソコンを二台も三台も並べてお仕事されていますよね。そちらのほうが、ずっとかっこいいなと思います(笑)。
 短い春が過ぎれば、もうすぐビールがおいしい季節がやってくるでしょう。この手紙が「よみタイ」にアップされる日、私は東京にいるはずです。今回は少し長く滞在する予定ですので、お時間が合えば、ぜひ〝ビールの約束〟を果たしましょうね。
 お会いできる日を、心より楽しみにしています。

 ナミ

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*次回は6月10日(火)公開予定です。

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それぞれに個性的な母たちを活写する話題作!

癌の闘病ののちに亡くなった実母、高齢の義父とふたりで暮らす認知症が加速度的に進行する義母。昭和時代を必死で駆け抜けた女性ふたりの人生をたどる。

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好評既刊『兄の終い』『全員悪人』『家族』をめぐる濃厚エピソードと40冊

実兄の突然死をめぐる『兄の終い』、認知症の義母を描く『全員悪人』、壊れてしまった実家の家族について触れた『家族』。大反響のエッセイを連発する、人気翻訳家の村井理子さん。認知症が進行する義母の介護、双子の息子たちの高校受験、積み重なりゆく仕事、長引くコロナ禍……ハプニング続きの日々のなかで、愛犬のラブラドール、ハリーを横に開くのは。読書家としても知られる著者の読書案内を兼ねた濃厚エピソード満載のエッセイ集。

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新刊紹介

クォン・ナミ(權南姬)

クォン・ナミ(權南姬)
1966年、大邱生まれ。韓国を代表する日本文芸の翻訳家でエッセイスト。主な訳書に、村上春樹『パン屋再襲撃』『村上ラヂオ』、小川糸『食堂かたつむり』『ツバキ文具店』、恩田陸『夜のピクニック』、群ようこ『かもめ食堂』、天童荒太『悼む人』、益田ミリ『僕の姉ちゃん』シリーズ、角田光代『紙の月』、三浦しをん『舟を編む』、東野圭吾『宿命』、ヨシタケシンスケ『メメンとモリ』、 鈴木のりたけ『大ピンチずかん1,、2』など翻訳歴約32年の間に300冊以上を担当。著書に、エッセイ『ひとりだから楽しい仕事』『翻訳に生きて死んで』(日本語版平凡社刊)、『面倒だけど、幸せになってみようか』『ある日、心の中にナムを植えた My Dog's Diary』『スターバックス日記』 などがある。
日本語版のエッセイが今年11月に発売予定。

권남희
1966년, 대구 출생. 일본문학번역가, 에세이스트. 지은 책으로 『번역에 살고 죽고』 『귀찮지만 행복해볼까』『혼자여서 좋은 직업』『어느 날 마음속에 나무를 심었다』『스타벅스 일기』가 있으며, 옮긴 책으로 『빵가게재습격』『무라카미 라디오』『밤의 피크닉』『달팽이식당』『츠바키 문구점』『카모메식당』 『애도하는 사람』 『종이달』 『배를 엮다』 『누구』『라이온의 간식』 『숙명』 『무라카미 T』 『메멘토모리』 『위기탈출도감1,2』 외에 많은 작품이 있다. 올해 11월에 일본어판 에세이 발매 예정.






村井理子

1970年、静岡県生まれ。翻訳家、エッセイスト。主な著書に『兄の終い』『全員悪人』『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術』『ハリー、大きな幸せ』『家族』『はやく一人になりたい!』『村井さんちの生活』 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』『ブッシュ妄言録』『更年期障害だと思ってたら重病だった話』『本を読んだら散歩に行こう』『ふたご母戦記』『義父母の介護』『エヴリシング・ワークス・アウト 訳して、書いて、楽しんで』『ある翻訳家の取り憑かれた日常2』など。主な訳書に『「ダメ女」たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『エデュケーション』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』『消えた冒険家』『射精責任』『PARIS The Memoir』『ハリウッドのプロデューサー、英国の城をセルフリノベする』など。

무라이 리코
1970년, 시즈오카현 출생. 번역가, 에세이스트. 주요 저서로 『오빠가 죽었다』 『낯선 여자가 매일 집에 온다』 『필요 없지만 고마워: 항상 무언가에 쫓기고, 누군가를 위해 지쳐있는 우리를 구원하는 기술』 『하리, 커다란 행복』 『가족』 『빨리 혼자가 되고 싶어!』 『무라이 씨 집의 생활』 『무라이 씨 집의 꽉꽉 채운 오븐구이』 『부시 망언록』 『갱년기 장애인 줄 알았는데 중병이었던 이야기』 『책 읽고 나서 산책 가자』 『쌍둥이 엄마 분투기』 『어느 번역가의 홀린 듯한 일상』 『시부모 간병』 등이 있다. 주요 번역서로 『요리가 자연스러워지는 쿠킹 클래스』, 『에듀케이션』, 『포식자 : 미국 전역을 충격에 빠뜨린 매복형 연쇄 살인마』,『사라진 모험가』, 『책임감 있게 사정하라』, 『PARIS The Memoir』, 『헐리웃 프로듀서, 영국의 성을 셀프 리노베이션하다』등.


X:@Riko_Murai
ブログ:https://rikomurai.com/

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