2025.3.11
私は一体、なんのために介護なんてしているのだろう 第7便 先の見えない老親の介護
300冊以上の日本文学作品を韓国語に翻訳されたクォンさんのエッセイ『ひとりだから楽しい仕事』『翻訳に生きて死んで』を村井さんが読んだことがきっかけで、メールのやり取りが始まりました。
翻訳家であること、介護を経験をしていること、愛犬を亡くしたこと、そして50代女性という共通点が次から次へと出てきて…語り合いたいことが尽きないふたりの、ソウルと大津の間を飛び交う往復書簡エッセイです。
☆第1便と、第2便は韓国語でも読めます!
バナーイラスト 花松あゆみ
第7便
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ナミさんへ
お元気にお過ごしでしょうか。私にとって一月はまるで嵐のように過ぎ去っていきました。去年、ハリーが亡くなり、悲しみのあまり仕事が手につかなくなり、すっかり何もかも放棄してしまったツケが今年になって回ってきたような状況です。年が明けていきなり体調を崩し、ようやく治ったと思ったら今度は次々と仕事がやってきて、そのうえ出張も重なって、息をつく暇もありませんでした。そしてはや二月。毎日必死に翻訳していたら、もう中旬となっていました。お返事が遅くなって本当にごめんなさい。
世界的に暖冬傾向ではありますが、ここ数日、私が住む地域では大雪が続いています。今朝もまだ暗いうちからどんどん雪が降っています。雪が降っても、風が吹かなければ電車は動きますので、息子たちは学校に行きました。駅までは送ってあげようと思い、車を出そうと思ったら、すっかり雪に埋まっていました。車を雪のなかから掘り出すのに三十分……。この作業が終わった時点で、今日は何も書けないかもしれないと思いましたが(あまりの重労働に)、ふと思い出したことがあって、ナミさんに報告しようと思いました。
先日のことです。本当に久しぶりに、義理の両親の家に立ち寄りました。日曜日の午後のことです。門は閉め切られており、朝の七時には必ず門を開けておく習慣のある両親のことですから、その日はまだ起床していないことがわかりました。思わず腕時計を見ると、午後一時半。昼ご飯もとっくに終わっていていい時間です。平日、義母は週に五日、デイサービスと呼ばれる通所介護サービスを受けています。朝の八時半には施設からお迎えが来て、午後の六時を過ぎるまで帰宅することはありません。そんな規則的な生活も、誰も迎えに来ることがない週末になると、一気にこのように崩れてしまいます。何かきっかけがなければ、義父母は朝食も取らずに眠り続け、そして昼食の時間が過ぎてもベッドから出ることはないのです。
玄関ドアを開けようとすると、しっかり鍵がかかっています。なんだか怖いなあと思いつつ、預かっている鍵で中に入りました。部屋のなかは、真っ暗です。嫌な考えが頭をよぎります。まさか、何かあったわけじゃないよね? こんなときに限って、突然死した実兄の汚れた部屋の光景がよみがえってきます。ゆっくりと廊下を進み、そしてリビングのドアを開けました。すると、真っ暗なリビングで義母が一人でぽつんと椅子に腰をかけ、心許ない表情をしていました。テレビを点けるでもなく、新聞を読むでもなく、彼女は一人、寒い部屋で座っていました。私を見るその目が、私を自分の息子の妻だと認識していないことを物語っていました。だから慎重に、本当に慎重に、声をかけました。
「お義母さん、私です。理子です。今日はまだお昼を食べていないのですか?」と聞くと、義母はぱっと表情を明るくして、「ああ、あなた、理子ちゃんなの? よかった。誰もいなくなってしまったから、心配していたのよ」と言ったのでした。私が実家に立ち寄らなければ、暖房のスイッチも入っていないそのリビングで、義母は夕方まで一人で座っていたでしょう。義父は物音を聞いて起きてきましたが、午後になっていることに驚いているような状況でした。もう二人暮らしには限界があるのは明らかです。とはいえ、どうしても今のまま、自宅に住み続けることが二人の希望なのです。その気持ちは痛いほどわかるから、私はなるべくなら助けたいと思いますが、ここ数ヶ月で義父母の老いは容赦なく加速し、トイレの失敗なども増えてきています。正直なところ、いつまでこんなことが続くのかと絶望しそうになるときもあります。特別養護老人ホームに入所さえしてくれれば、このように義母が寒い部屋で一人でいることもないのに。絶望と同時に、猛烈な怒りが湧いてきます。私は一体、なんのために介護なんてしているのだろう。なぜ言うことを聞いてくれないのだろう。なぜこんなことをしているのだろう。仲が良かったわけでもないのに。

ふと、考えました。自分の親だったら、どうしていただろう。私は十代で父を亡くし、その後母も亡くしたため、二人の老後を知りません。きっと父は、扱いにくい老人になっていたでしょう。頑固で口うるさく、わがままなお爺さんになっていたことは想像に難くありません。きっと母は、そんな父をかばうようにして暮らしていたでしょう。兄はきっと、両親の介護には参加しなかったでしょう。私にすべてを押しつけて、自分は飄々と暮らしたでしょう(笑)。いろいろなことが想像できますが、自分がたった一人で親の介護を引き入れることになったとき、私はどうやってその難題を乗り越えただろうと考えることがあります。不思議なことなのですが、ほんの少しだけ、経験してみたかったなと思う日もあります。良いことばかりを想像します。母と父と私と三人で、もしかしたら仲良く過ごせたのではないか、と。
日本では、子どもが高齢になった親の介護をすることはある意味当然のことのように言われますが、なぜかその役割が女性だけに向けられる傾向があります。例えば嫁に、娘に介護が任される、あるいはイニシアチブを取ることが期待されるのです。家族のなかに男性がいても、実際に介護をすることを期待されるのは、悲しいかな、ほとんど場合が女性です。今現在では、その傾向も多少変化してきたようには感じられますが、例えば介護職従事者に女性が多いということも、その傾向を表しているのではと感じています。
初めてナミさんからメールが届いたとき、そこにはお母様の介護で大変な一年を過ごしていたと書かれていました。私はナミさんが一人でお母様の介護をされて、看取られたことを知り、そして仕事も同時に行っていたことがわかり驚愕しました。そして、どれだけ大変だっただろうと考えました。
正直な話、私も今、介護に関しては疲れ切ってしまいました。だって、先が見えないのですから。こんなことを書いては不謹慎だとわかって書いています。でも、いつまで続くのかなと暗い気持ちになります。
夜中にTikTokで韓国のレストランを巡りながら、いつかナミさんとビール片手に人生を語り明かしてみたいと目論んでいます。とにかく毎日が慌ただしくて、翻訳に追われ、原稿に追われ、家の掃除もままならないような状況ですが、今年こそは少し時間に余裕を持って、自分自身の人生について考えたいなと思う私なのでした。
とりとめのないことばかりを書きましたが、ナミさんがお元気でいらっしゃることを祈っております。
それでは、大雪の滋賀県より
村井理子

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