2024.10.8
孤独でしんどいけれど素敵な仕事…だから翻訳はやめられない! 第2便 韓国と日本で翻訳家をしています
300冊以上の日本文学作品を韓国語に翻訳されたクォンさんのエッセイ『ひとりだから楽しい仕事』『翻訳に生きて死んで』を村井さんが読んだことがきっかけで、メールのやり取りが始まりました。
翻訳家であること、介護経験をしていること、愛犬を亡くしたこと、そして50代女性という共通点が次から次へと出てきて…語り合いたいことが尽きないふたりの、ソウルと大津の間を飛び交う往復書簡エッセイです。
バナーイラスト 花松あゆみ
第2便 韓国と日本で翻訳家をしています
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クォン・ナミ様
ナミさんから初めてメールを頂いてからしばらく経ちました。あの感激の日以来、私はたぶん十回では済まないくらい、この話題で原稿を書きました。新聞の連載で「実は韓国の翻訳家のクォン・ナミ氏からメールが届いた」とか、月刊誌に「ある日、メールが届いた。差出人は、なんとクォン・ナミ」とか、書評原稿にも「実は先日、信じられないことが起きた。なんとクォン・ナミ氏からメールが届いたのだ」……ナミさんからのメールをネタにして、ここまで書いてしまうとは! ナミさん、本当にありがとうございます!
さて、お返事を読ませて頂きました。私とナミさんのちょっと不思議な出会い、読者のみなさんにも届いたのではないでしょうか。いくつになっても、想像もしていなかった誰かと人生が交差する瞬間は、なんともいえない幸せな気持ちになります。ナミさんが私からの返事を読んで、心臓を爆発させそうに喜んで下さったと知って、私もうれしかったです。それまで翻訳書でのみ、その存在を知っていたナミさんが、急に身近な人になったような気持ちがしました。同志という言葉だと大げさかもしれないけれど、でも、遠い場所に同志を得たような気持ちになりました。これは、本当。とてもうれしかったです。というのも、翻訳というのは孤独な作業だから。
私がどのようにして翻訳という仕事に出会ったのか、もしかしたらナミさんはご存じないかもしれません。どこかに書いたことがあるかもしれませんが、いい機会ですので、ナミさんにもお伝えさせてください。私と翻訳との出会いは、まさに偶然でした。まだ翻訳という仕事に目覚めていなかった三十代前半、私は実は、まとまった文章を書くことからキャリアをスタートさせました。当時はそれがいつか仕事になるなんて考えてはいませんでした。私はそもそも、面白いことが大好きで、当時も常に「何か面白いことが転がっていないか」と、毎日ネタ探しに明け暮れていたのです。そこで私が目をつけたのが、2000年に大統領選挙で勝利を収め、第43代アメリカ合衆国大統領になったジョージ・W・ブッシュでした。彼の言い間違いは面白いと知っていた私は、当時、まだ今ほど多くの人が触れていなかったインターネットを駆使して、彼の発言を片っ端から集めて、訳して、自分のブログで公表するという、誰も喜ばない(と思っていた)活動に明け暮れていました。そんな活動を一人で「ヒヒヒ」と笑いながらやっていたある日、一通のメールが届きました。とある月刊誌編集部からで、あなたのブログを転載させて欲しいという依頼でした。もちろん、二つ返事で了承しました。雑誌にブッシュ大統領の珍発言(後にブッシズムと名付けられました)が掲載されると、瞬く間に書籍化を打診するメールが届き始めました。その中の一社と契約し、出版されたのが『ブッシュ妄言録』で、これは韓国語にも翻訳されました。私の想像以上にヒットしました。
そうこうするうちに、翻訳の依頼が舞い込みました。なんと、SM小説でした。怖い物知らずだった私は、その依頼も二つ返事で了承し、そして今に至る……。どうです? 私っていい加減でしょ?
そんないい加減なスタートだった私ですが、今でもなんとか翻訳家を続けられているのは、ただただ、本が好き、書くことが好きだからです。翻訳って孤独な作業ですし、いつ終わるかもわからないし、あんまり売れないし(涙)、時々、なんで私こんなことやってるんだろうって思うこともあります。でもね、大好きな事件ものノンフィクションを訳しているとき、私はとっても元気なんです。精神的にも、肉体的にも、本当に安定しているんです。なんだかおかしいですよね。きっと、この仕事が私に合っているのでしょう。なにより、海外の素晴らしい作品を日本語に訳すなんて、素敵じゃないですか……すごくしんどいけど。
こんな私が驚愕したこと。それは、ナミさんがこれまで関わってきた日本文学の世界の広さです! 村上春樹、小川糸、恩田陸、群ようこ、天童荒太、益田ミリ、角田光代、三浦しをん、朝井リョウ、東野圭吾といった錚々たる、日本を代表する作家の作品を次々と訳しているナミさんの頭のなかを覗いてみたい。ナミさんの頭のなかの、単語の引き出しには一体、何十万語の文字がしまわれているのだろうと不思議でなりません。日本文学という、深く、広い世界のなかを、スイスイと泳ぐように進むナミさん。どうやって翻訳していますか? 興味が尽きません。憑依型? それとも、原文絶対型?
ちなみに私は専門がノンフィクション(の、それも殺人事件ものが多いです。それも、鈍器本と呼ばれる分厚い本です)ですから、原文通り、まさに淡々と訳しております。動画やドキュメンタリーを参考にすることもありますし、訳しながらデータを集めて、下調べは確実にするタイプです。その、淡々とした作業がまるで巨大なパズルを作るようで、語弊があるかもしれないけれど、最高に楽しい。完成したときの喜びたるや、宝くじでも当たったかのようです。
さて、私もそろそろ翻訳作業に戻ろうかと思います。愛犬ハリーが死んでしまって呆然としちゃって、しばらく作業が止まっていたのですが、ようやく元気になってきました。今、三冊同時進行で訳しています。文字、文字、文字の毎日です。でも、翻訳の調子がいいときって、なんだか幸せなんですよね。
ナミさんの仕事も、順調に進んでいますように。
村井理子
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クォンさんから村井さんへ
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理子さんへ
理子さん、ご返信を読んで、またもや心臓が破裂しそうになってしまいました。新聞や月刊誌に何度も私の名前を書いてくださったなんて、本当に光栄です。よろしければ、一生ネタとしてお使いください(笑)。そういえば、「すばる」八月号に『翻訳に生きて死んで』の書評を書いてくださいましたよね。びっくりです。大騒ぎしながら読みました。あっ、去年も『ひとりだから楽しい仕事』の書評を書いてくださったでしょう? あのときも気絶しそうになりました。翻訳をするとき、日本の作家さんのプロフィールで数えきれないほど目にしてきた文芸誌「すばる」に、光栄にも私の名前、私の著書の話が二度も掲載されるなんて、こんな夢のようなことがあるでしょうか。もし私がお金持ちになる日が来るとしたら、きっと理子さんのおかげに違いありません。ところで、同じテーマについて繰り返しお書きになっても、読者からクレームが入るようなことはありませんか? 私は十年前にエッセイに書いたことをすっかり忘れて、同じエピソードをもう一度書いてしまい、「以前の本に書いてあったことがまた出てくる」と読者に指摘されたことがあるんです。でも村上春樹さんのエッセイを何冊か翻訳しましたが、春樹さんも一度お書きになったエピソードを何度か書いていらっしゃるんですよね。おほほ。
そうそう、私は理子さんのオンラインストーカーなのかもしれません。理子さんがどんなふうに翻訳のお仕事を始めたのか、どこかで読んで知っていました。それを読んだとき、「わーぉ! これって、私が翻訳家志望の人によく話していたことだ」と思いました。昔から「翻訳家になるにはどうすればいいですか?」と質問されることがあると、こんな方法をおすすめしていたんです。外国で話題になっている自分の関心事や、まだ国内で発表されていない外国人作家の作品の書評などをSNSやブログに書き続けていれば、関連資料を探している出版社の目に留まって、思いがけないチャンスが訪れるかもしれませんよ、って。 実際に、韓国でもそんなふうに仕事を始めた翻訳家がいるんです。その翻訳家も、とある作家の作品がまだ韓国で一冊も出ていない時期に原書を読んで、ブログに書評をアップしていました。当然の流れで、まだ国内では知られていない作家について検索していた編集者の目に留まりました。翻訳を依頼されるようになったのです。今では、韓国トップクラスの翻訳家として活躍しています。それで、理子さんの翻訳デビュー(?)のいきさつを読んだとき、翻訳家を目指している方々には耳寄りの情報だなと思ったというわけです。
『翻訳に生きて死んで』にも書いたので、理子さんもご存じだと思いますが、私も翻訳家になりたいと思ったことはありませんでした。自分には手の届かない分野だと思っていたんです。そんな私が二十六歳という若さで初めての翻訳書を出すことになったのですから、人生って、本当にどこに転がるかわからないボールみたいですよね。しかも当時の私は、作家になりたいという儚い夢を見ながら、一日中ゴロゴロして本ばかり読んでいる引きこもりレベルのニートでした。ところがそんなある日、日本の雑誌を翻訳するアルバイトをすることになったのです。するとどうでしょう、これがあまりにも面白くて。原稿用紙に訳文を手書きしていた時代でしたが、徹夜で仕事をしました。残念だったのは、雑誌の翻訳は月に一度しか入ってこないということです。そこで私は自分が持っていた日本の小説を毎日訳すようになりました。そのうちの一冊が星新一さんの『おせっかいな神々』です。一九九二年に私の名前で出た初めての翻訳書! もちろん、何の経歴もないニートが翻訳した本がすぐに出版されたわけではありません。雑誌の翻訳バイトをきっかけに翻訳家になりたいという夢ができ、出版社を紹介してもらいました。そこで小説を数冊翻訳して経験を積んだ後、この本が出ることになりました。
そういえば、私もSM小説を翻訳したことがあります。まだ新米で仕事がなくて、入ってきたオファーをすべてお引き受けしていた頃のことです。一冊訳した後、飢え死にすることになるとしても、もうこういうお仕事を引き受けるのはやめようと心に誓ったものです(笑)。当時は自己啓発書もたくさん訳していたのですが……ある出版社の社長が「ナミさんは文章がやわらかいから、自己啓発書は合わないみたいですね」とおっしゃいました。その言葉を聞いて以来、ひたすら文学作品ばかりを翻訳するようになりました。おかげで、数えきれないほどの日本の現代文学作家の作品と出会い、三十年あまりの間、楽しく日本文学の海を泳いできました。ありがたくて、幸せな職業です。翻訳の仕事のおかげで娘の靜河を育て上げることもできました。そうそう、小学生だった頃の靜河から、理子さんと同じ質問をされたことがあります。文学作品を訳すときも、政治、経済、社会、文化、医学、科学など、幅広い分野についてリサーチをしなくてはなりません。それを見ていた娘が「お母さんって、ものすごくいろんなことを知ってるよね」なんて言うんですよ。だから、「いやぁ~この本の翻訳が終わったら全部忘れちゃうのよ」と話したら、「そっか、あたしもテストが終わったら、勉強したこと全部忘れちゃうんだよね」と素直に納得していました。 「あなたはそれじゃあダメなのよ~」と思ってしまいましたけど。翻訳しながら調べた膨大な単語と知識を頭の中の引き出しに貯めっぱなしにしていたら、脳がオーバーヒートして 破裂してしまうんじゃないでしょうか(笑)。一冊終わるたびに、自動的に空っぽになるような気がします。それから、私は翻訳をするとき、主人公にシンクロするスタイルです。原文に忠実に、著者が使った言葉を最大限に生かそうとしています。訳す本を事前に読まないというのも、ある意味では秘訣と言えるかもしれません。次のページがどんな内容なのか気になって仕事をする、というタイプ。だから、朝起きるといちばんに仕事机に向かっています。
理子さん、私は秋になったら靜河と仙台旅行に行くことにしました。『翻訳に生きて死んで』に収録されていた「シングルマザーになった日」というコラムを覚えていらっしゃるでしょうか。二十二年前、仙台で三ヶ月暮らしたことがあるのです。その三ヶ月が娘にとってはとても幸せな思い出として記憶に残っているようです。今回の旅では、私たちが住んでいた家と娘が通っていた立町小学校、毎日遊びに行っていたせんだいメディアテークや離婚届を出した領事館など、思い出の地を見て回ることにしました。次のメールでは、「シングルマザーになった日、その二十二年後」のエピソードをお届けしたいと思います。今、想像しただけでも涙が出てきそうなので、仙台駅に着いたら号泣してしまうかもしれません。
今日もメールが長くなってしまいました。お話ししたいことが多すぎて、文字数の規定がなかったら、きっと大河小説を書いてしまったことでしょう。こうしてメールを書きつつも、理子さんの次のメールが待ち遠しいです。 ではでは、また!
クォン・ナミ
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