2023.8.24
鏡が浮き彫りにするのは、目に見えない真実か、仮初の現実か 第10回 画家の目としての鏡の役割
「逆さまゲーム」の冒頭で語り手が見つめるのは、スペイン黄金時代の宮廷画家ディエゴ・ベラスケスの〈侍女たち(ラス・メニーナス)〉(一六五六年)である。フェリペ四世の依頼で描かれたこの絵の舞台は、城内にあった画家のアトリエだと言われている。画面右側の窓から差し込む光が、薄く影に包まれた室内に集う宮廷人の姿を浮き彫りにする。その中心で光を一身に浴びて輝くのが、当時五歳のマルガリータ王女である(1)。艶やかな真珠色のドレスをまとう小さな王女と、両側を占めるお付きの侍女たち。跪くマリア・アグスティーナ・サルミエントは赤い杯を載せた金の丸盆を差し出し(2)、反対側でイサベル・デ・ヴェラスコが身をかがめてお辞儀をする(3)。イサベルの前にいる二人の矮人のうち、黒いドレスをまとうのがドイツ人のマリア・バルボラ(4)、そしてマスティフ犬の背に足をかけるのがイタリア人のニコラ・ペルトサートである(5)。当時のヨーロッパ宮廷では、矮人を愛玩動物のように仕えさせるという慣習があった。この二人の背後で、喪服姿の王女の付添人マルセラ・デ・ウリョーア(6)が、隣に立つ目付役ドン・ディエゴ・ルイス・デ・アスコーナと思しき人物に何やら語りかけている(7)。画面左側に裏向きの大きなカンヴァスが立ちはだかり、そのそばに画家ベラスケスが佇む(8)。最後に画面右奥、アトリエの入り口に姿を見せるのが、王妃の侍従ドン・ホセ・ニエト・ベラスケスであり(9)、画家の縁者であるとも考えられている。
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これだけ見ると、ほぼモデルが特定されていることから、ベラスケスはマルガリータ王女の肖像画、あるいは幼い王女を中心とした集団肖像画を描いているのだと解釈できるかもしれない。画面の外から見ることのできないカンヴァスには、この絵そのものが描かれているのだろうか。カンヴァスの置かれ方や画家の真っ直ぐ向けられた眼差しから、鏡の存在が浮かび上がってくる。そうなれば、ベラスケスは鏡の中のアトリエの光景を、そのまま写し取ったということになる。
しかし、この見方を打ち消すのが、画面奥の壁にある鏡の存在であった。黒い枠に収まった鏡に、アトリエの情景は映っていない。代わりに、国王フェリペ四世と王妃マリアナの姿が小さくもはっきりと浮かんでいるのだ(10)。鏡の上に掛かる二枚の絵画が影に包まれ、内容がうっすらとしか分からないのとは対照的である(ちなみに、財産目録から、オウィディウスの『変身物語』を描いたルーベンスの連作、そしてベラスケスの義理の息子と助手によるヨルダーンスの絵画の模写だと判明している)(11)。鏡像として登場する国王夫妻だが、絵画〈ラス・メニーナス〉に実際の姿は見えない。ここからベラスケスが描くのは、フェリペ四世とマリアナ王妃であり、マルガリータ王女一行がアトリエにてその様子を眺めているという状況が推測できるのだ。となれば、画面の外にいる鑑賞者の位置に国王夫妻がおり、ベラスケスはモデルである彼らの眼差しが捉えた情景をカンヴァスに、つまり〈ラス・メニーナス〉の中に見事に表してみせたということになる。この作品を制作するにあたって画家が意識したのは鏡ではなく、目の存在だったのである。その証拠に、画家は右手で絵筆を握っており、鏡像ならば左手となるはずだ。
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