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ドイツが豊かな森を描く一方、ボスやブリューゲルが目指した表現とは 第3回 絵の中の物語を包む風景の主役感

ヒエロニムス・ボスが描くからくり仕掛けの世界

 十六世紀ドイツにおいて森の豊かな表情が描かれてゆく間、ネーデルラントにおいては、特に三人の画家の自然への眼差しが、風景画の発展へと大きな影響をもたらした。十五世紀から十六世紀にかけて、パノラマ的な風景表現が生み出されてゆく。そこでは鳥瞰的な眼差しのもと、幻想の土地や現世の営みを含む豊かな自然が、絵巻となって広がっている。
 絵画の中では、骨組みのような形状の樹木が生え、奇妙なオブジェめいた植物がそこかしこに花開く。この地上とは思えない不思議な土地を作り出したのが、ヒエロニムス・ボスである。画家の描く空想の風景は、からくり仕掛けの世界を思わせる。動物と植物、鉱物の境界が曖昧となり、互いに混ざり合う様子がそこに見られるのだ。彼の作品の中でも特に幻想性に満ちているのが、三連祭壇画〈快楽の園〉(一五〇〇年頃)だろう。両翼を閉じた状態の外パネルには、硝子のように透明な球体が、グリザイユという無彩色の濃淡を用いた画法で描かれている。球体の内にあるのは、半ば水につかった大地であり、時間的には旧約聖書の創世記が示す天地創造の三日目、空間的には大地と水が分かたれた状態が表されているのだ。そこにはまだ人間の姿はなく、この世界の生成と経過の様子を見つめるのは、左翼左上の創造主である神だけである。

ボス[悦楽の園]両翼を閉じた状態の外パネル
ボス[悦楽の園]両翼を閉じた状態の外パネル

 両翼を開くと、モノトーンの天地創造の結果が色彩豊かに、そして耳を圧するような騒めきと共に姿を現す。左翼に広がるエデンの園では、創造主がアダムとエヴァを引き合わせている(1)。中央パネルの大きく開けた風景内で、無数の裸体の人物が、悪夢的なカーニヴァルのようにひしめき合いながら快楽に耽っている。前景の人々の中には、ひと抱え以上もある果物と戯れ、その内側に入り込み、頭の上に載せる姿もある(2)。中景の女たちが水浴する池の周囲を、動物に騎乗した男たちが回り、空中には有翼の人間や魚、グリフォンなどが見られる(3)。そして、右翼パネルを埋め尽くすのが、赤い業火が噴き出す暗闇に閉ざされた地獄の情景だ。「音楽地獄」と呼ばれる前景では、リュートや竪琴たてごとなど様々な楽器が拷問具となり、罪人が責め立てられている。後景では火とサーチライトのような光が、この不協和音に満ちた永遠の闇夜を切り裂き、建物のシルエットと戦闘場面を浮かび上がらせる(4)。
 しかし、この三枚のパネルが表す物語を、ひと続きに読み取ることは難しい。初期ネーデルラントの三連祭壇画には、左から右へと絵画内の時間が流れるように主題を配置するタイプがある。そこでは左翼に楽園追放、右翼に地獄の場面、そして中央パネルにキリストの磔刑や最後の審判が描かれることが伝統的であった。〈悦楽の園〉の場合、中央パネルの主題は、現世の快楽におぼれることへの戒めだと考えられている。そのために、原罪以前の無垢むくな楽園から地獄へと進行する時間は、人類が堕落への道をたどる過程に沿っているのだ。

ヒエロニムス・ボス〈悦楽の園〉1500年頃 スペイン、マドリード[プラド美術館]
ヒエロニムス・ボス〈悦楽の園〉1500年頃 スペイン、マドリード[プラド美術館]

 祭壇画に織り込まれた風景を読み解く際、そこに描かれた動物もまた手がかりとなる。左翼奥の象とキリンの姿は、画家の生きた時代の「東洋」や「アフリカ」のイメージを表したものである(1)。ただし、一角獣をはじめとする空想上の動物がエデンの園にあることから、実在の土地の印象と具体的に結びついているわけではない。アダムの背後の生命の樹や、泉のそばの岩場に立つ知恵の樹(エヴァを誘惑する蛇が巻き付いている)にも、そのイメージが投影されているのか、南国の植物を思わせる形状が与えられていた。さらに、左翼と中央パネルにそびえ立つ樹木、もしくは岩山とおぼしきピンクや青のオブジェは、ボスのシメール的表現のように、植物や鉱物、動物が接ぎ合わされた人工的な自然をかたどっている。エデンの園の池に立つそれは、甲殻類の外殻に覆われているようであり、中央パネルの後景には、不自然なまでに完全な球状の植物的な塔が立っている。右翼の植物と人間の融合した「木男」(2)もまた、擬態を繰り返した結果、本来の形からかけ離れた自然の幻想性を示しているのだろう。こうして見ると〈快楽の園〉に描かれた無数のマネキン人形じみた人間も、どこかオブジェ的な性質を帯びているようだ。ひとつひとつが寓意ぐうい的な意味を秘めた細部表現は、のちにブリューゲル絵画に引き継がれてゆく。しかし、この作品を概観すると、人間もまた風景を構成するものに過ぎないと映るのだ。

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新刊紹介

石沢麻依

1980年、宮城県仙台市生まれ。東北大学文学部で心理学を学び、同大学院文学研究科で西洋美術史を専攻、修士課程を修了。2017年からドイツのハイデルベルク大学の大学院の博士課程においてルネサンス美術を専攻している。
2021年「貝に続く場所にて」で第64回群像新人文学賞、第165回芥川賞を受賞。
著書に『貝に続く場所にて』『月の三相』がある。

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