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一人の時間を選べるという幸福もある【第16回 壁に向かって座る人々】

孤独から逃れるための「一人」

 その日も私は、ある店で壁に向かってコーヒーをすすっていました。本のページをめくりつつ思ったのは、「誰かと一緒にいるよりも、一人の方が寂しくない時は意外と多い」ということです。気の合わない人達といる時の寂寥は、一人でいる時よりもずっとつらいものだ、と。
 してみると隠遁や漂泊という行為も、もしかすると孤独から逃れるためにするものなのかも、と思えてきます。
 鴨長明や兼好法師のような隠遁者も、種田山頭火や尾崎放哉のような漂泊者も、孤独になりたくて、あえて一人きりの環境を求めたのだと思っていました。自己の鍛錬や文学修業のために、彼等は仲間や家族と共に過ごす生ぬるい環境を捨て、孤独というつらい状況に身を置いたのだろう、と。
 しかしもしかすると彼等は、浮世で人と接しているが故に感じざるを得ない孤独から逃れるために一人になったのではないか、という気もするのです。
 隠遁文学や漂泊文学を読んでいると、作者達は故郷において、偏屈であったりプライドが高かったり大酒飲みであったりと、様々な理由から浮いていたように思えます。
 多勢の中で自分一人が異質という状況は、深い孤独をもたらします。鴨長明や兼好法師の時代であれ、山頭火や放哉の時代であれ、デジタル機器を使用して遠くにいる同類とつながることも、できません。家族や近隣の人々と協力せねば平穏に生きることが難しい時代においては、周囲と合わせることが不得手だったり、コミュニケーション能力が不足気味の人は、居場所がどこにもない気持ちになったことでしょう。
 そんな時に彼等は、人里離れた山中にいおりをむすんだり、放浪の旅に出たりしたのだと私は思います。彼等は、集団からはじき出されたわけではありません。集団の中でこれほどの孤独感を感じるなら、自分で選んで一人になった方がマシなのでは、と思った末の行動だったのではないか。
 ですから彼等は、一人であっても孤独ではなかったように思うのです。集団の中で「自分は一人だ」と感じる孤独よりも、自分で選んで一人でいる方が、魂は平穏である気がしてなりません。

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 鴨長明「方丈記」を読むと、なるほど心地よさそうな隠遁の日々が記されているのでした。五十歳で出家・遁世した長明。もとより親も妻子も無い暮らしでしたが、浮世で様々な心配をしつつ生活することに疲れ、さらにもう一段深い孤独を求めたのです。
 大原に住んだ後は、現在の京都市伏見区の、日野という土地へ。方丈すなわち四畳半ほどの広さの庵を作ると、日々自然をで、読経をする日々を送ります。
 読経に身の入らない時は、素直に怠ける。怠けたとて怒る人はいないし、誰かの視線を気にする必要もありません。
 無言の行をしているわけではないけれど、一人でいれば、口のせいで犯してしまう罪からも逃れることができます。確かに我々は日々、「あんなことを言ってしまった」という後悔に苛まれますが、一人でいれば話さなくていいので、そのような後悔とも無縁。「方丈記」を読んで明日にでも隠遁したくなる人は、私だけではないことでしょう。
「方丈記」を書いた時、鴨長明は還暦前後。当時としてはかなりの高齢者であり、今風に言うなら身寄りのない独居老人です。しかし彼は、全くつらそうではありません。当然ながら召使などいないので、全てのことを自分でしなくてはならないけれど、それは自分自身を召使として使っているということ。他人を使うよりもよっぽどラクだ、としています。
 長明は、たまにみやこに出ることもあったようです。乞食(今となっては差別用語ですが、原文ママです)のように痩せさらばえた姿に恥じ入ることになったけれど、日野に戻ってくれば反対に、俗世のことに気を取られてばかりの都の人々を憐れむ側になりました。
 こうなると俄然、読者は長明のことが羨ましくなってきます。家族に恵まれている人は独居老人を憐れむけれど、身寄りのない独居老人・長明は、加齢臭の消臭も遺産の分配も気にすることなく、自由に生きることができたのですから。
 今、「方丈記」の暮らしに憧れる高齢者が多いのは、高齢者が一人でいることが、世間的にはかわいそうなこととされているからなのかもしれません。「他人から見たらみじめであっても、一人で自由に生きたい」と思う高齢者は、少なくないというのに。
 長明は、しかし全くの人嫌いというわけではありませんでした。山の麓にある山守の庵には十歳の少年がいて、退屈した時は、その少年を遊び相手としたのです。少年と一緒に岩梨やむかごをとり、芹をつむなどして、野山を歩き回った長明。世間の常識にとらわれていない十歳の少年は、長明にとって格好の相棒でした。
 そんな隠遁生活に憧れても、現在の世においては、そう簡単に誰もいない地に庵をむすぶことはできません。田舎暮らしをしてみても、意外に近隣とのお付き合いが大変だったりもするのです。

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 そうしてみると、コーヒーショップの面壁席で一人の時間を堪能するというのは、現代人にとっての一時的な隠遁行為となっているように思うのでした。面壁席は、生身の人間とのコミュニケーションという難解なお題から逃避し、ゲームなり読書なりに没頭できる場所。そこでは、一人でいることは全く目立ちませんし、憐れまれませんし、非難もされない。かといって自宅で一人でいるのと違って、周囲には一人仲間もいるので心強くもある。一人でいることが最も自然に見える場所で、人々は英気を養うのです。
「人は、一人では生きられない」としばしば言われますが、確かにその通り。しかしこの世には、一人でいる時間を長くとらないと、窒息しそうになる人もいます。
 都会では今、そんな人々にとってのオアシスが増殖してきてありがたい限りなのですが、では田舎の人は一人になりたい時、どうしているのだろう。……と思って聞いてみると、田舎の三世代同居世帯で農業をしている知り合いのおじいさんは言いました。
「そういう時はね、自然薯じねんじよ掘るの。自然薯が折れないように注意しながら一心不乱に一人で地面を掘ってると、なんもかんも忘れてスッキリするよ」
 と。
 なるほど田舎にいようと都会にいようと、一人でいたい時はある。人それぞれのやり方で、我々は人波の中で溺れずにいるための一人時間を確保しているのです。
 一人でいることは悲劇ではなく、偉大な仕事の数々はきっと、一人の時間から生まれています。「方丈記」であれ一本の自然薯であれ、一人時間がもたらした恵みは、世をより豊かにしているように思うのでした。

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*本連載は今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました。

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酒井順子

さかい・じゅんこ
1966年東京生まれ。高校在学中から雑誌にコラムを発表。大学卒業後、広告会社勤務を経て執筆専業となる。
2004年『負け犬の遠吠え』で婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。
著書に『裏が、幸せ。』『子の無い人生』『百年の女「婦人公論」が見た大正、昭和、平成』『駄目な世代』『男尊女子』『家族終了』『ガラスの50代』『女人京都』『日本エッセイ小史』『老いを読む 老いを書く』『松本清張の女たち』『ひのえうまに生まれて 300年の呪いを解く』の他、『枕草子』(全訳)など多数。

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