よみタイ

群ようこ「いかがなものか」
ふだん何となく思っていながらも保留にしがち、あるいは言い切れないこと。
世間で起こる事件、流行、事柄、町で見かけたことなどについて、
違和感と疑問をスパッと投げかける。
群ようこ流、一刀両断エッセイ。

第4回 顔の大小

 私が若い頃には、そんな話題など出たこともなかったが、いつの間にか「顔が大きいのはよろしくない」という価値基準ができてしまったようだ。小、中学生時代はもちろん、高校でも大学でも、顔の造作や体形については、自分だけではなく友だちもそれなりに不満を持っていたけれど、顔の大きさについて話題が出た記憶はまったくない。きっと同年輩の人たちは、私と同じように親からそんな価値観で育てられなかったのだろうし、テレビを観ていてもお互いに顔の大小についてからかったりする芸能人もいなかった。世代的にみんなが顔が大きかったせいもあるのだろうが、顔の大きさは話題になるようなものではなかったのである。
 私が最初に顔の大きさについていわれたのは、学校を卒業して入社した広告代理店でだった。同期入社の女の子に、
「身長は何センチ?」
 と聞かれた私が、
「最近測ってないからわからないけど、一五〇から一五二の間くらいじゃないかな」
 と返事をしたら、
「あら、そう。もっと大きく見えるわね。顔が大きいからかしら」
 といわれた。そこで私は、
「うん、態度もでかいからね」
 と笑っていた。
 その話を別の同期入社の女の子にしたら、「失礼ね! どうしてそんなことをいうのかしら。いっとくけど顔はあなたよりも、あの人のほうが大きいからね。だいたいあの人は、自分がすべてにいちばんだと思っているんだから」
 と憤慨してくれた。
 そのときはじめて私は、私の身長を聞いた彼女に馬鹿にされたとわかり、「なんだよー」とは思ったけれど、別に不愉快には感じなかった。
「しょうがないじゃない、この大きさなんだから」
 というしかなかった。同年輩だとそれぞれの人間の顔の大きさはさほど変わらない。しかし私は背が低いので、同じ顔の大きさでも身長が高い人に比べると比率の問題で顔が大きく見える。太っているのは自力である程度まではなんとかなるけれど、骨格が関係する顔の大きさは自力ではどうにもならないので、
「ふーん、私は顔が大きいのか」
 と思いながら過ごしていた。しかし仕事のときに使う、乱視用の眼鏡をあつらえにいったら、店の人は私が選んだフレームを見て、
「お客様はお顔が小さいので、こちらのフレームでないと」
 と幅の狭いほうを薦められたりする。私の顔は大きいのか小さいのか自分でもわからなくなった。ただ「Dr.スランプ アラレちゃん」に出てくる、ニコちゃん大王には親近感を持っていた。
 顔の大小は私にとって、どうでもよかった。自分も他人も含めて、
「どうして顔が大きいのがいけないのか?」
 である。とはいえビデオで映画の「雄呂血」「無法松の一生」を観たとき、阪東妻三郎の顔の大きさに驚いたのは事実である。しかしあれくらいでないと画面に映ったときの迫力がない。手に比べて顔がとても大きい浮世絵の大首絵みたいなものである。当時は、
「阪妻、顔がでかい」
 などと笑う人は皆無だったに違いない。それどころか、格好のいい役者として、うっとりして彼の姿を観ていたはずなのだ。
 それが、なぜ、顔の大きな人を馬鹿にするような風潮になったのだろうか。着物の場合は顔がある程度しっかりしていないと、バランスが悪いし、日本人は身長が欧米人に比べて低く、胴長短足で顔が大きいのが特徴だった。顔が大きいという基準もなかったし、当たり前だった。しかしそこに西洋の基準が入ってきた。昭和二〇年代にミス・ユニバースに入賞した伊東絹子に対して、八頭身という言葉もできた。以降、それまでとは違う、洋服が似合うスタイルのいい女性が次々と登場してきたが、それは特別な人であり、ほとんどの人は相変わらず胴長短足だった。彼女たちの姿を観て、
「私は短足だ」
 とコンプレックスを持ったりせずに、
「何とスタイルがよいことよ!」
 と終戦後に日本人女性が世界的に認められたのを喜んだのだ。
 一時、スーパーモデルブームがあって、彼女たちの足の長さや顔の小ささに羨望の目を向け、服装やメイクの真似をする若い女性も多かったが、その後、日本人の身長も伸び、足が長くなり顔も小さくなって、そのような体形のモデル、芸能人も登場してきた。彼らが登場すると、
「顔が小さーい」
「うらやましい」
 などとその場にいる観客から声があがる。とにかく顔が小さいのを褒める人が多くなり、その結果、いつの間にか、
「顔が小さいのがよい」
 という基準ができてしまった。はなはだ不愉快である。割合からいって、ごく少数の職業に就いている彼らを基準にして、そうでない人たちを馬鹿にする神経がよくわからない。欧米人でも顔が大きな人はいるし、スペインに行ったときは、親しみのある体形の人がたくさんいた。
 自分の顔面や体形に満足をしている人なんていないだろう。ここがこうなればいい、ここも今ひとつと悩みはつきない。しかし世の中に生まれ出るときに、自分の体をそのように作っていただいたので、それで生きていかなくてはならないのである。誰しも若い頃は自分の容姿が気になるものだけれど、今の人は自分が理想とする体形や顔面に固執しすぎているのではないか。私など、玉川カルテットのギャグのとおり、
「あたしゃも少し背が欲しい」
 なのであるが、身長もどうにもならないので、どうしようもない。誰も他人の短足や不細工など、当人が悩んでいる度合いに比べて、気にしていないと、この歳になってわかった。
 何かを気にしすぎる性格の人は、他人のその何かがとても気になる。たとえば恋愛に興味がある人は、他人の恋愛が気になるし、家を建てたい人は、他人が家を買うと気になる。子供が欲しい人は妊娠という言葉に敏感になる。そしてその感情が自分のなかでうまく処理できない人は、うらやましい人、自分よりもちょっと劣ると感じた人を攻撃する。あるいはうらやましくて仕方がない人を素直に褒められないので、欠点を探して憂さを晴らそうとする。心の貧しい人たちである。そういう人たちはいつまでたっても幸せにはなれない。

 インターネットで検索していると、テレビに出ている人たちに対しての悪口を目にする機会があるが、出演者がミスをしたとか、世間的によろしくないことを起こしたのなら、まあ仕方がないけれど、そうではない場合、悪口を書かれているのは容姿である。それも私が見た限りでは、
「顔が大きい」
 という内容が多かった。ターゲットになったそのなかの一人の男性に対して、私はそういう認識がなかったが、あらためてテレビに出演している姿を観てみると、そういえばそうかもしれないという気はした。しかし顔立ちはきれいだし、性格もよさそうだ。そういった他に褒めポイントがたくさんある人をおとしめるためには、若い人がいわれるのを嫌がる、外見に関してあげつらうのが、手っ取り早い嫌がらせなのだろう。
「ネットに書き込んだお前だって、きっと顔は小さくないはずだ。もしも並んだら、あんたのほうが大きいかもしれないじゃないか」
 と文句をいってやりたい。個人の努力ではどうにもならないことを悪口にするのは、自分の心の貧しさを露呈しているようなものなのだ。だいたいインターネットに匿名で悪口を書き込むこと自体、問題があるのだが。
 最近、私はますます若い芸能人の顔の区別がつかなくなり、みんな同じに見えるようになった。彼ら彼女らが一人で映っているとわからないのだが、他の出演者と比べると、たしかに顔がてのひらにのるくらいに小さくて、背も高く足も長い。若い人たちは、こういう姿がいいわけねと眺めている。そのような体形に憧れるのは、フィギュアをでるのと同じ感覚のような気がする。男女とも頭が小さくて九頭身、十頭身のようなお人形みたいな体形。以前、若い女性が化粧で毛穴のないつるつるした顔面に作り上げる流行があって、アンドロイド肌などと呼ばれていた。当時は顔面だけだったが、最近は体形まで人間的でないものが求められている。
 顔が小さい人に憧れはするけれど、現実の自分は違う。そして自分よりも顔が大きい人、太っている人、背が低い人に対して悪口をいいはじめる。痩せすぎていても背が高すぎても同様だ。結局なんであれ、悪口をいいたいだけなのだ。そんなことをいったとしても悪口をいっている当人たちが、顔が小さくなったり、身長が高くなり股下が伸びたりと、憧れている人たちと同じになるわけでもないのに。
 小顔にするエステとか、美容グッズも見たことがあるが、
「みなさん、お商売がお上手で」
 といいたくなる。だいたい顔が小さくなると服が似合うようになると思うのが間違いなのである。私は背が低くても、太っていても、顔が大きくても、センスがよくて洋服が似合う人たちをたくさん見てきた。その反面、モデルなみにスタイルがよくても、
「うーん」
 とうなりたくなる人も多かった。逆にその人の個性が出ないのである。ファッション雑誌のグラビアみたいに、服はきれいに着られるけれどクセに欠ける。毒の部分がないのがつまらないのだ。体形に問題がある場合、ある面から見たら欠点かもしれないが、別の面ではそれが魅力になる。渡辺直美がチャーミングだと感じる人がいるのが救いである。ノームコアもスタイルがよくなければ見栄えがしないという人もいるけれど、それだってその人なりの体格で着れば個性が出せる。それは人間の中身の問題でもある。
 また世の中の常として、まず人々のコンプレックスを突くことで、消費させようとするから、
「こうしなければ服は似合わない」
「小顔じゃないと野暮ったい」
「この体形じゃないと素敵に見えない」
 などと脅かして、お金を払わせるしくみになっている。芸能人で明らかに、
「あなた、しばらく見かけないと思ったら、エラを削りましたね」
 と指摘したくなる人もいるけれど、顔を出すのが仕事だから、それもまた仕方がないだろう。
 顔が大きくたって卑屈になる必要はない。人混みで待ち合わせをしても、すぐにわかっていい。小顔はいいかえれば貧相ということでもある。若い時期は外見をとても気にするから、それも仕方がないともいえるのだが、私のような年齢になると、芸能人に対しても、周囲の人に対しても、誰それが顔が大きい、小さいなど誰もいわなくなる。顔の大小より他に大切なことがたくさんあるとわかってきたからである。私は年齢的に経過観察するのは無理だけれど、これまでの日本人の体形とは違う、掌にのるような小顔の芸能人やモデルたちが、高齢になったときにどのような姿になるのか興味がわくのである。

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群ようこ

むれ・ようこ●1954年東京都生まれ。日本大学藝術学部卒業。広告会社などを経て、78年「本の雑誌社」入社、84年にエッセイ『午前零時の玄米パン』を刊行。同年に同社を退職し、専業作家となる。小説に『無印OL物語』などの<無印>シリーズ、『かもめ食堂』『婚約迷走中 パンとスープとネコ日和』『咳をしても一人と一匹』『散歩するネコ れんげ荘物語』、エッセイに『ゆるい生活』『欲と収納』『よれよれ肉体百科』『かるい生活』『まあまあの日々』『還暦着物日記』『この先には、何がある?』『じじばばのるつぼ』、評伝に『贅沢貧乏のマリア』『妖精と妖怪のあいだ 評伝・平林たい子』など著書多数。

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