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お金への興味とチャレンジ精神の多寡が、格差や序列に比例する未来がすぐそこに? 第22回 遅ればせながらの金融教育

あってはいけない差別、使ってはいけない言葉。 昨今の「反・上下差」の動きは、2015年に国連加盟国で採択されたSDGsの広まりにより急速化した。 差別や格差を無くし、個々の多様性を認め横並びで生きていきましょう、という世の中になったかに見えるものの……。 貧困差別、ジェンダー差別、容貌差別等々、頻繁に勃発する炎上発言に象徴されるように、水面下に潜った上下差への希求は、根深く残っているのではないでしょうか。 名著『下に見る人』の書き手、酒井順子さんが、生活のあちこちに潜む階級を掘り起こしていく連載です。
イラストレーション:石野点子
イラストレーション:石野点子

第22回 遅ればせながらの金融教育

 昨今、子供の頃からお金についての教育をしよう、という動きが広がっています。高校においては、資産形成に関する授業が必修に。成人年齢が引き下げられ、十八歳から親の同意なしにクレジットカードを作ったりローンを組んだりできるようになったということで、高校生のうちにお金について学んでおく必要が出てきたのです。
 のみならず、金融教育が遅れているため、海外と比べると日本人の金融知識はかなり低い、という事情もあるようです。私自身も金融知識に関しては全く自信がなく、普通預金と定期預金の違い程度しかわらない。金融商品の説明など聞いていると、目がうつろになってもうろうとしてくるのです。
 金融の才を持つ人を見れば、学校で金融教育など受けずとも、何やら投資的な行為をして、お金を増やしている(増える時だけではないのだろうが)模様。
「毎年一回、ビジネスクラスでハワイに行くくらいはもうかる」
 などと聞いても、
「へーえ、すごいね」
 と、指をくわえるばかりなのでした。
 金融教育は、早いほど良いとも言われているのだそうです。金融庁のホームページでは子供向けの施策として、
「うんこ先生と一緒に、ドリルで楽しくお金のことを学んでみよう」
 という、うんこドリルと金融庁がコラボしたゲームなどを見ることができます。日本銀行や財務省もそれぞれ、子供向けのページを作っているのであり、今や国を挙げて、早期の金融教育を進めようとしていることがわかるのでした。
 この流れの中で、「自分の時も、この手の教育をしてほしかった」と、悔しく思う私。「お金がたくさんあると嬉しい」程度のことしか考えてこなかった身からすると、きちんと学校でお金についての教育を受けられるとは、何と羨ましいことか。
 試しに、金融庁のホームページにあった「カネールのKIN★YOUランド」で「金融カルタ」(お金にまつわる言葉についての説明を聞き、該当する言葉が書いてある札を取る)にトライしてみたところ、私は「ディスクロージャー」「金融ビッグバン」といったカタカナ言葉だけでなく、「小切手」「手形」といったごく初歩的な言葉すらも曖昧にしか理解していないことが判明。まさに小学生以下の金融知識であることが判明しました。
 振り返れば昔は、「子供はお金のことなんか考えなくていい」という考え方があったように思います。親から「うちにはお金ないんだからね」と常々言われているので、
「こんなに高いお肉を買っちゃって、大丈夫なの?」
 などと家計を心配すると、
「子供はお金のことなんか考えなくていいの」
 などと言われもしました。が、それ以外にも、お金は下品なものなので、な子供はそのことについて考えなくていいのだ、という感覚もなかったか。
 大昔、「士農工商」という江戸時代の身分について教わった時、
「お金は不浄なものと考えられていました。だから、お金に触れる商人は身分が低いとされたのです」
 と先生から教わった気がしますが、江戸時代からこの「お金=下品、不浄」という考え方は根強く続いているのかも。
 しかし、世の中はお金で回っています。お金を使用せずに生きることはできず、水や電気がインフラであるならば、お金もまたインフラ、と言いたくなるけれど公共の誰かが面倒をみてくれるわけではなく、自分の力でどうにか稼がなくてはならないという、厄介な回りものなのです。
 生きていく上では、必須。だけれど、その話を大っぴらにするのははばかられる。……という意味で、お金と性は似ています。できれば学校教育でも家庭教育でもその話題には触れないでおきたいので、それぞれが自分のやり方で、じわじわと知識を身につけてちょうだいね。……と、昔の大人は思っていたのでしょう。
 しかしお金についても性についても、それでは手遅れになってしまうという認識が、ここにきて強まってきました。寝た子を起こしてでも正しい知識を与える方が、将来の道を間違えずに済む、という感覚になってきたのです。
 性に関しては、耳年増というのか好奇心旺盛というのか、誰から習わずとも様々な知識を自主的に身につけていった私。しかしお金に関しては一切の才能がなく、放置されたらされっぱなしで、今までやってきました。「私は一生、金融の世界で『得』をすることはないのだろう。その分コツコツと働いて、ごはんを食べていかなくてはならない」と思いながら、書いた文とカネとを交換しながら生きてきたのです。
 私のように、「お金のことを考えるのが苦手」という人は、決して少なくありません。私としては今まで、それを日本風の「お金は不浄」という刷り込み、およびお金のことを子供に考えさせないようにしてきた日本の教育のせいにしてきました。
 そんな私が「これではまずいのだろうな」とかなり深刻に思ったのは、新約聖書の、とあるたとえ話を読んでいた時です。
 聖書には、様々な“たとえ話”が登場します。神やイエスは登場しないけれど、身近な題材を使って神の教えをわかりやすく伝えるのが、たとえ話。
 その中の一つである「タラントンのたとえ」は、長い旅に出るにあたって、三人のしもべにお金を預けた主人の話です。能力に応じて、僕Aには五タラントン、僕Bには二タラントン、僕Cには一タラントンのお金を預けて、主人は旅に出ました。戻ってくると、僕Aは五タラントンを原資に商売をして、もう五タラントンを儲けていました。僕Bもまた二タラントンを儲けたので僕Aと僕Bはそれぞれ主人から褒められ、さらに責任ある仕事を与えられたのです。
 しかし僕Cに渡した一タラントンは、一タラントンのままでした。僕Cは、
「ご主人様は厳しいお方なので、下手に何かして、しくじってしまうのが怖くって」
 などと言います。何でも僕Cは、地面を掘ってお金を隠しておいただけだというではありませんか。
 主人は、
「だったら銀行に預けておけば、少なくとも利子がついたではないか」
 と、僕Cを叱りました。結果、主人は僕Cから一タラントンを取り上げて僕Aに与え、それどころか僕Cを追放してしまったのです。
 初めてこの話を読んだ時に私は、
「キリスト教、無理!」
 と思ったことでした。最初から、僕Cには商才が無いのをわかっていたから一タラントンしか預けなかったわけで、CがAやBのように良い結果を残すとは、主人も思っていなかったはず。
 だというのに、塩漬けにしておいたからといって金を奪って追い出すとは、あまりに厳しすぎやしないか。「主人」とはおそらく神のことを示すものと思われ、だとするならこの宗教はとうてい無理。……と、「そのままでいいんだよ」的な思想に包まれる国に生きる身としては思ったのです。
 そこで思い当たるのは、キリスト教系社会の考え方と我が国の考え方の違いです。この話はもちろん、「お金を持ったなら、商売や投資をして増やさないとダメ」、ということを伝えたいわけではありません。与えられたものを死蔵させるのでなく、精一杯生かして次のステップへ行くべきだ、と教える話なのでしょう。
 しかし、「与えられたものをどうにかして増やそう、できない者は追放!」という感覚は、「和を大切にして、みんな一緒にお米を作りましょう」的な国の者からすると、やはりあまりにハード。
 かつてキリスト教国が、植民地をどんどん広げていったりしたのも、この手の感覚がベースにあるせいなのかもしれない、と私は思いました。タラントンという通貨単位は、才能すなわち「タレント」の語源となっているようですが、お金であれ何であれ、「持っている者」はそれをさらに増やしていく義務を持つ、という良くも悪くもアグレッシブな姿勢が、この神の影響下にある人々にはしみついているのではないか。
 とはいえ聖書において、金持ちが優遇されているわけではありません。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」という有名な言葉もありますが、金持ちよりも貧しい人の方が、神やイエスからは常に優しくしてもらえるのです。
 たとえばある時イエスは、金持ち達が献金をする様を眺めていました。するとその後、貧しいやもめが、わずか硬貨二枚を献金したのです。
 イエスは、
「誰よりも多く献金したのは、このやもめだ。やもめは生活費を全て献金したが、金持ち達は有り余る中から献金しただけなのだから」
 といったことを言ったのだそう。
 この話と「タラントンのたとえ」を合わせて考えると、金持ちの家に生まれたり、お金を稼ぐ才能を持つ人は、その資質を生かしてじゃんじゃんお金を稼ぎ、稼いだお金をじゃんじゃん神に捧げるべき、ということになりましょう。死に際しては全財産を捧げることが、「らくだが針の穴」並みに低い確率で金持ちが神の国に行ける道、ということになるのではないか。
 欧米でチャリティー文化が盛んであるのに対して日本では今ひとつ、と言われるのには、そのような背景も関係しているのかもしれません。もちろん欧米とて、真剣にキリスト教を信じている人ばかりではありませんが、しみついているものはあろう。

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新刊紹介

酒井順子

さかい・じゅんこ
1966年東京生まれ。高校在学中から雑誌にコラムを発表。大学卒業後、広告会社勤務を経て執筆専業となる。
2004年『負け犬の遠吠え』で婦人公論文芸賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。
著書に『裏が、幸せ。』『子の無い人生』『百年の女「婦人公論」が見た大正、昭和、平成』『駄目な世代』『男尊女子』『家族終了』『ガラスの50代』『女人京都』『日本エッセイ小史』など多数。

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