2022.7.1
「差」はあってはいけないものか 第1回 「違い」と「差」のちがいって?
第1回 「違い」と「差」のちがいって?

今、あってはいけないものとされているのが、「差」です。差別はもちろんのこと、格差だの段差だのといった「差」の字が入る言葉はたいてい、よくないことを示す時に使うもの。「違い」があるのは当たり前だが、「差」はなくしていくべきであると、現代の人々は考えているのです。
「差」も「違い」も、似たような意味合いの言葉ではあります。が、「差」には是正すべきイメージが付きまとい、「違い」にはそれがない。金子みすゞは、
「みんなちがって、みんないい」
と詩を書きましたが、彼女は決して、
「みんな差があって、みんないい」
とは書かないことでしょう。
「差」と「違い」には、このようにイメージ上の‟格差”があります。物事を比較して上下に並べた時に生じるものが「差」であり、対して「違い」は、比較や序列化の意思なく物事を横に並べてみた時に目につく、それぞれの特徴。
「差」という文字のヒールっぷりが目立つようになってきたのは、「格差」や「格差社会」という言葉が注目された頃です。「格差社会」という言葉は二〇〇六(平成一八)年に流行語大賞のトップテン入りとなったのですが、受賞者である山田昌弘氏が二〇〇四(平成一六)年に刊行した『希望格差社会』という本が、格差論の火付け役となりました。
二〇〇六年の流行語大賞においては、「格差社会」の他にも「下層社会」「下流社会」「貧困率」といった言葉もノミネートされています。「豊かになるもならないも、自己責任」といった考え方の流布によって経済的な上下差が著しくなり、階級が固定化されたのがこの頃である模様。
ちなみにこの年の流行語大賞で年間大賞に選ばれたのは、「イナバウアー」(荒川静香がトリノオリンピックのフィギュアスケートで金メダルを獲得した時に披露した後ろにそらしながら滑る技)の他にもう一つ、「品格」でした。
こちらは、大ベストセラーとなった藤原正彦氏の『日本の品格』からきた言葉。アメリカ発の市場経済原理が席巻する世において、昔ながらの品格を取り戻すように、と日本人に呼びかける書となっています。
アメリカ風の競争社会の中で、格差だの下流だのといった言葉の重みを実感せざるを得なくなっている日本人に対して、日本にはもともと違う物差しがあったではないか、と檄を飛ばすこの書。売れに売れたのは、機を見るに敏な人のみが優遇される世に対して、多くの日本人がうんざりしていたからでしょう。
が、しかし。品格の「格」という語もまた、人や物などが持つ値打ちによって与えられた等級や位、身分、段階などを示す、いわば“上下差用語”なのでした。
「格が違う」
などという言い方はまさに、上下の差を実感した時に使用されるもの。
『日本の品格』は、経済のくびきから離れて別の視点を持とうではないかと説く書ではありましたが、しかし「上下差から離れよう」と語る書ではありませんでした。日本人は「品」という部分で上を目指すべきだということで、「上へ」という視点からは自由になってはいなかったのです。
「品格」という言葉は『日本の品格』のヒット後も流行を続け、二〇〇六年に坂東眞理子氏の『女性の品格』が刊行されると、これまた大ベストセラーに。挨拶から服装まで、様々な面においてきちんと生きましょう、と女性に対して提唱するこの本は、「女らしさ」の大切さを説いています。まだ「女らしさ」「男らしさ」といった言葉がタブー視されていなかったこの頃、本書では基本的な女らしさを身につけることによって女性は品を持つことができる、と説かれるのです。