2023.3.21
ちゃんと息子のお世話ができるんですか? 第9回 昭和の女と家事
母親であること、妻であること、そして女性として生きていくということ。
『兄の終い』『全員悪人』『家族』がロングセラー、『本を読んだら散歩に行こう』も好評の村井理子さんが、実母と義母、ふたりの女性の人生を綴ります。
月に一度の家がきれいになる日
幼い頃、私が両親と住んでいた数軒の家を思い出すと、ぼんやりと浮かんでくる風景がある。カーテンから差し込む光、縁側の座布団で寝る柴犬、狭い和室に置かれたストーブとちゃぶ台、玄関先に置かれていた鉢植え。どれもとても懐かしいシーンだが同時に、雑然とした風景でもある。
例えば玄関だ。玄関先には鉢植えがいくつも置かれていたが(急に数が増え、ある日突然すべて捨てられることが多かった)、半分は枯れていた。靴は常に散乱していた。主に私と兄の靴だったが、靴以外にも、長靴やら下駄やらハイヒールやらが、大量に脱ぎ散らかされていたし、傘立てには四人家族にしては多すぎる傘が乱雑に刺さっていた。
靴箱には古い靴がぎゅうぎゅうに詰め込まれ、鉢植え用の肥料が青いバケツに入れられた状態で土間を占拠し、靴箱の上には灰皿や花瓶や鍵や機械油など、雑多なものが(それも使用されているのを見たことがないようなものが)常に置かれていた。玄関の壁にかけられた丸い鏡はいつも曇りがちで、そのうえ割れていた。つまり、あまり片づいていない場所だった。家のなかも、四人家族にしてはあまりにも多くのものでごった返していた印象だ。
中学生の頃に住んでいた家は、最初の家に比べたら新しくて広くてきれいだったけれど、母の職場である駅前の喫茶店からは遠かったので、母は仕事中に頻繁に家に戻ることがなくなり、全体が徐々に散らかっていったような気がする。
リビングのソファの上にはいつも洗濯物が山積みで、それを動かして床に置かないと座ることができない。だから、母が仕事の合間に洗って干して取り込んだ洗濯物を誰かが床に置き、そしてそれはそのまま床に放置され、徐々にリビングの床を占拠していく状態だった。
キッチンに至っては、さらにカオスだった。ダイニングテーブルの上にはところ狭しと食品や調味料が置かれていた。食器棚は備え付けのものがあったのだが、そこも皿やコップで一杯で、引き出しには使いかけの小麦粉や海苔やお茶漬けの素が詰まっていた。まるで今現在のわが家のようだけれど、私が子どもの頃に住んでいた家は、そんな家だった。べつにそれが辛かったわけではなくて、良い思い出も一杯あるのだが、とりあえず、全体的に散らかっている空間だった。最悪な状態とまでは言えないのだけれど、決してきれいではなかった。そして不思議なことに、この家のなかの乱雑な状態は、私の友達の家でもほぼ同じようなものだった。昭和というのは、全体的に雑然とした時代だったと思う。そして、お母さんたちが忙しく働いている時代だったと思う。あるいはそのような地域に住んでいたのだろう。
そんな雑然とした家が突如としてきれいになる日は、月に一度ぐらいの頻度でやってきた。母が本気を出して片づける日があるのだ。家中の窓を開け放ち、隅から隅まで部屋に掃除機をかけ、水拭きし、床に落ちた衣類を拾い上げ、家具を磨き上げた。なぜなら、堪忍袋の緒が切れた父が機嫌を悪くするからだった。父はよく、なんでこの家はこんなに汚れているんだ。こんな家に帰るのは嫌だと母に言っていた。そう言われるたびに母は悲しそうな顔をして、その翌日には掃除をするのだった。現代であれば、あなただってここに住んでいるのだから、あなたも掃除したらいいじゃないと言えるだろうが、母は言い返さなかった。母は父に叱られないようにびくびくしながら、日々、生活していたのではないだろうか。
母は、一階のリビングと夫婦の寝室だけではなく、二階の私と兄の部屋、バス、トイレまですべて一人で片づけていた。学校から帰るといつのまにか家中がぴかぴかに磨き上げられていて、子どもながらにとてもうれしかった記憶がある。うわあ、こんなに家がきれいだなんてすごいねと母に言った記憶がある。母もとてもうれしそうにしていた。そして父も上機嫌になるし、兄も家のなかがきれいだと外に遊びに行く回数が減るから、母は必死に掃除をしていたはずだ。何もそこまで献身的に尽くさなくてもよかったのにと、今は無責任に思うことがある。