2022.12.20
いつ産むの? 仕事はいつ辞めるの? 何人産むの? 第6回 最大級のトラウマは出産
深く聞いてはいけないというオーラが―
義母が結婚当時何歳だったのか、正直、よくわからない。一人息子である夫を出産したのが二十六歳だということは知っている。出産直後は生活が苦しかった話などはところどころ聞いているが、あまり深くは聞いていない。深く聞いてはいけないというオーラが強めに義母から醸し出されていたからだ。詳細は知らないまま、現在に至るといったところだ。私自身、そこまで興味があったわけではない。夫曰く、夫はかなり幼い時期から祖母(義母の母)に預けられ、のんびりとした、愛情溢れる環境で育ったということだった。夫ののんびりとした性格を考えるたびに、義母の激しさとどうしても結びつかない部分があったのだが、祖父母に育てられたというのであれば納得である。祖母は七輪で鰻を丁寧に焼いてくれるような、料理上手な人だったらしい。虫を捕まえに森まで一緒に行くなど、楽しい思い出ばかりだそうだ。祖父母との静かな暮らしは、夫にとって決して忘れることができないほど幸せな時間だったようだ。
祖母のもとから引き取られ、義理の母と父と一緒に夫が暮らしはじめたのは、小学校低学年の頃だったらしい。当時の義父は仕事一筋の人で厳しい面もあったが優しい人で、楽しい思い出も多いそうだ。義母も明るく、活動的で、完璧なまでの専業主婦だったと夫は言う。非の打ち所のない家族像のように思える。しかし、私自身が義母から聞いた話を総合すると、少し事情は違うような気がする。私は今まで、義母ほど教育熱心な人に巡り会ったことがない。義母は、夫が四十歳を超えた時期になっても、受験の話題になると目の色を変えていたし、進学校の偏差値など熟知していた。私が中学受験をしたと知ると「あなたが育ったような田舎で、どこの中学を受験したの? 偏差値は?」と驚いて聞いてきた。嫌味というよりは純粋に驚いていたのだ。高校の成績はどれぐらいで、どの教科が好きで、そして大学にはストレートで入ったのかどうか、初めて会った直後ぐらいの時期に細かいヒアリングを受けた私は、この人は相当な教育ママだったに違いないと確信した。当時からいい加減な私はすべて適当に答えていたが、「こうあるべき」という思いに対して、義母のこだわりは相当強いという印象を得た。そして、この勢いで育てられたとしたら、夫は窮屈だったのではないかと思った。
「こうあるべき」という思い込みが誰よりも強い義母は、結婚式の引き出物からドレスに至るまで、すべて自分の「こうあるべき」に我々が沿わなければ、沿うまで頑なに主張を変えない人だった。そして、そんな義母が結婚したばかりの私と夫に当然のように言ったのは、「子どもはいつ?」という言葉だった。大げさではなく、数百回は聞かれたと思う。いつ産むの? 仕事はいつ辞めるの? どこで産むの? 何人産むの? 家はどこに建てるの? 二世帯同居住宅でしょ? 同居よね? と、マシンガンのようだった。
私にとって、最大級のトラウマが出産のことなのだが、とにかく義母は、私の顔を見れば必ず、いつ子どもを産むのかと聞き、私が「お義母さんには関係ないことです」と答えれば、「関係あるに決まっている」と言って怒りを募らせた。今年こそはと何度言われたことか。
結婚したのは二十七歳で出産したのは三十五歳だが、途中何度か、産む気がないなら別れて下さい、不妊症であれば離婚して下さいと、遠回しに言われていた。結婚して数年後には、いつの間にかわが家の柱にお札が貼られたこともあった。安産祈願だった。それまでには、私も半分ノイローゼになっていたと思う。正月に会えば「今年の目標はおばあちゃんになること」なんて、正面切って言われるのだから、その頃の私があまりにも気の毒である。