よみタイ

村井理子「実母と義母」

女は旦那に命がけで尽くすもの 第3回 義父母の病と母の最後の恋

事前連絡なしで訪ねてくる義父母

 何かがおかしいなと思ったのは、義母の変化をミカさんから聞かされた数か月後に起きたとある事件だった。週末になると、朝九時ぴったりに義父からわが家に電話がかかってくる。これは、わが家の「週末の悪夢」と呼ばれていた。隙あらばわが家にやってきて、孫に会いたがる義父は、こちらが嫌がっているのも気にせず、何度でも電話をかけてくる。かけてくるのはまだいい方で、勝手にやってくることも多かった。こちらのスケジュールは考慮しないから、私たちが外出中にいきなりやってきて家の前で待っていることもあったし、私が一人で仕事をしているときでさえふらりとやってくるし(もちろん鍵は開けなかったが)、平和な週末の朝でも平気で、何度も電話をかけてくるのだ。私も夫も固定電話の着信音が鳴ると気分が落ち込むので、何年も着信音を切っていた。
 それでもしつこく電話が来るので、実家の電話番号が表示されると、応対するのはじゃんけんで決めていた。私が出れば、来訪を断る成功率は百パーセントだが、夫は実の親に頼まれると断り切れず、来訪を許してしまう。そうやって来訪を許してしまえば、貴重な週末の一日は台無しになる。ただただ、孫に会いたい義父と義母は車でやってきて、何時間でもわが家にいた。そんなとき私は諦めて、すぐさま仕事をしはじめた。このとき鍛えられたおかげで、リビングにある仕事場の近くに誰がいようとも、どれだけ騒ごうとも、どれだけ腹が立つ状況であっても、仕事に集中するという高度なテクニックを身につけることができた。
 この日も、やっぱり朝一番に義父から陰気な電話がかかってきた。どうしてもそちらに行きたいという暗い声に、電話に出た夫がとうとう激怒した。「いい加減にしてくれ! こっちだって仕事で疲れてるんやぞ! 朝っぱらから、勘弁してくれ!」と大声で言った。私は、しめしめと思って、笑いをかみ殺していた。夫もようやく成長してくれたなとうれしかったのだ。いい年をして、親の言いなりってのもなあ……と思っていたこの三十分後、義母の運転する車がわが家の庭に停まった。夫は真っ青になった。私は「始まるぞ」と思った。ふたりはこのようにして、断っても無理矢理わが家に来るようになっていたのだ。
 家に入ってきたふたりに「断ったやろ!」と激怒したのは夫だった。すると、重々状況を理解している義父は、うつむきながら、「ちょっとだけやったらええと思って」と答えた。「なんで自分たちふたりの生活を楽しむことができないんや。なんでそんなに依存体質なんや」と、夫は困り果てた様子で義父に言った。うなだれていた義父だったが、義母は、真っ赤な顔をして、「親に向かってその態度はなんや!」と激怒した。「こんな家、二度と来るか!」と言うと、荷物を乱暴にまとめて(途中、スーパーに立ち寄って食材を買い込んでいた)車に乗り込んだ。義父は慌ててその後を追い、車に乗り込んだ。夫は、慌てた義父が忘れていった買い物袋を手渡そうと車に近寄ったが、その瞬間に義母がアクセルを踏み、次の瞬間、急ブレーキを踏んだ。そして今度はギアを入れ替えて、猛スピードでバックした。夫はもう少しで轢かれるところだった。
 結局、義母はわが家の庭から車を出すのに五分以上もかかってハンドルを切り続け、砂埃をまき散らして、ようやく方向転換すると、猛スピードでどこかへ行ってしまった。私と夫は、このときはじめて、義母の認知症の可能性を、うっすらではあったけれど認識したように思う。とにかく、どっと疲れて、唖然とした。
 そしてこの翌日、義母は何ごともなかったかのように電話をしてきた。「昨日、大丈夫でした?」と恐る恐る聞く私に、義母は「昨日って何のこと?」と答えた。このときも疑問には思ったが、認知症には直接結びつかなかった。なにしろ義母はこのときも、まったく普通に日常生活を営んでいたからだ。ほんの一瞬、何かが狂うことはあった。しかし、それ以外があまりにも普通というよりもむしろ優秀だから、その異様さが上手にブレンドされていってしまうのだ。義母はこの後、自損事故を数回起こした。わが家の門柱には、今でも義母の車が擦ったあとがいくつか残っている。運転免許証を返納してもらうための、全力の説得がここから一年続くことになった。

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村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。主な連載に「村井さんちの生活」(新潮社「Webでも考える人」)、「犬(きみ)がいるから」(亜紀書房「あき地」)。主な著書に『兄の終い』『全員悪人』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。主な訳書に『サカナ・レッスン』『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。
『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』が、9月に文庫化予定!

ツイッター:@Riko_Murai
ブログ:https://rikomurai.com/

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