2022.9.20
女は旦那に命がけで尽くすもの 第3回 義父母の病と母の最後の恋
一度も応じなかった義父の店の手伝い
四年前、義父が脳梗塞で倒れたその日は、私にとって義母が別人となってしまった日だった。当時、夫の実家はその一部を客室として利用し、和食料理店を営んでいた。一日一組から二組限定で、和食調理人だった義父の料理を振る舞っていたのだ。田舎のうえに、あまり料理店のない土地柄もあって、お食い初めや誕生会といった特別な席での利用が多く、繁盛していた。当時、実家には常に三名の女性アルバイトが交代で通っており、配膳や掃除などの手伝いをしてくれていた。義母は、和食料理店主人の妻という立場で客を迎え入れ、最後にはお茶と和菓子を出して挨拶することを自分の仕事だと考えていたはずだ。いつもびしっと着物を着ていた。事務作業が得意だった義母は、予約の管理や会計、帳簿に至るまで、すべて一人でこなしていた。
アルバイトの女性は年齢が様々で、一番上でひょうきんなミカさんが七十代、しっかり者のミヨさんが六十代後半、一番若く、何ごとにもよく気がつくケイちゃんが三十代中盤だった。三人とも働き者で、義母のクセの強さをよく理解したうえで、上手に付き合ってくれていたと思う。私も、義母には幾度となく店の手伝いをするように言われていたが、一度として応じたことはなかった。実は学生時代、京都祇園の割烹で数年働いた経験があったのだが、アルバイトの女性三人の姿を見るたびに、ここに私が入ることですべてが台無しだと確信したからだ。それに、私には本職があるのだ。当時の私はようやく仕事が順調になりはじめた翻訳家として、自分の仕事に一生懸命だったし、子どももまだ幼く、どちらかと言えば私が手伝ってもらいたいような暮らしだった。夫の実家の家業とはいえ、私に働きに行く時間の余裕はなかった。義母は不満そうだったが、時折会うアルバイト三人組はいつも私に、大丈夫よ、あなたはあなたの仕事をやって、私たちがここを切り盛りするからと、力強く言ってくれた。だから私は彼女たちを信頼し、会えば笑顔で会話し、プレゼントをしあい、なんでも話し合う関係となった。
ある日、実家に立ち寄った私とばったり出くわした仕事中のミカさんが、深刻な顔をして、私を廊下の隅に引っ張って行った。
「こんなこと言うの、どうかと思うんだけど……」と小声で囁きつつ、どうしても私に伝えなければという気迫とともに、「奥さんがおかしいんや」と口にした。
「ここ数か月だと思うんだけど、話していることの辻褄が合わないし、お仕事の内容も忘れていると思う。あんたも気づいてるやろ?」と付け加えた。確かに、私も気づいてはいた。「そうですね、確かに」と私は答えた。「それやったら、なるべく早くに病院に行ったほうがいいと思う。親父さん(義父のこと)はわかってないと思う。仕事のことは私たちに任せてくれたらいいから、早く病院に連れて行ってあげて」
義母はミカさんが私に忠告してくれたこのときの数か月前から、徐々に変わってきていた。私たちの誰一人としてそれを認知症の初期症状だとは見抜けなかったわけだが、義母は誰に対しても攻撃的になり、歯に衣着せないもの言いで、その人の容姿や仕事ぶりを批判するようになった。また、習い事の教室でも、道具の場所が分からなくなってしまうなどのちょっとしたミスが増えたと人づてに聞いた。習い事に使う道具が無くなってしまったと一日中探し回り、クタクタになったころに、盗まれたのではと疑い始める。その犯人候補にはもちろん私も入っていて、幾度となく、その行方を尋ねられた。私はのんきに「そんなの知るわけないじゃないですか~」と笑いながら答えていたが、これこそまさに認知症の物盗られ妄想だったのかと、少し後になって気づくことになる。
和食料理店の仕事に支障が出はじめるほど義母の症状が強くなったきっかけは、お客さんに、会計が税抜きなのか、税込みなのかと尋ねられたことだった。達筆な義母はお品書きを毎朝丁寧に筆で書いていたが(これが本当に見事だった)、そのお品書きに「当店は税込み価格です。お電話で確認済みです」と書かれていたときは、思わず、「これいらないんとちゃいます?」と声をかけた。予約の電話が入ると、神経質に「うちは税込み価格ですよ。税抜きにしたいのならば、最初から言って下さい」などと、付け加えるようにもなっていた。私は「税抜きか税込みかなんて気にする人います? そんなの言わないほうがいいんじゃないかな」と義母にやんわりと助言しつつ、絶対に首を縦に振らないこの頑なさは一体なんなのだと不思議だった。アルバイトの女性三人も、しきりと首をひねっていた。これに関しては、夫と義母は大げんかもしている。