2026.7.11
ホクトベガの悲劇──それでも競馬を愛するということ【人生競馬場 最終回】
前回は、オルフェーヴルと会社員時代の思い出を綴りました。
最終回は、ホクトベガと安楽死に関する佐川さんの思いが語られます。

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人生で唯一買った「写真集」
私の中高時代、周囲にはグラビアアイドルの写真集を買う同級生どもが大量に発生していた。ある者は山田まりやの写真集を買い、ある者は小池栄子の写真集を買った。ある者は佐藤江梨子の写真集を買い、ある者はMEGUMIの写真集を買った。乙葉、眞鍋かをり、ほしのあき、熊田曜子、川村ゆきえ……写真集を買うということは、まだまだ勇気のいることだった。同級生に誰を買ったか話せば「お前、あんなのが好きなのかよ」といじられる可能性もあるし、家でどれほど目立たない場所に隠してもオカンに発見される危険性をゼロにはできなかった。しかしそれでも、みんなは写真集を買った。今のように、デジタル写真集をひっそり買って楽しめる時代ではなかった。 誰もが自らの全存在を懸けてグラビアアイドルを選び取り、様々な危険を承知の上でその写真集を買っていたのだ。
私はこの頃、異様に鮮明に覚えているのだが、内山理名のファースト写真「R―157」を買いたくて買いたくて仕様がなかった。「R―157」というのはもちろん「O―157」が元ネタであろう。1996年に発生した集団食中毒の原因となった大腸菌をもじっており、内山理名の写真集の帯には「RINAウイルス増殖中!」と書いてあった。現代ならまず「待った」がかかるネーミングだと思うが、時は90年代。今振り返ってみればほとんど何でもありの時代だった。現代から90年代になされた仕事を見ればかなりヤバイものが多いが、その時代を肌で感じていた者にとっては「そういう空気だったしなあ」という許しの心がどこかにあって、たとえ自分が深く傷つけられるような内容の作品だったとしても普通に受け取れてしまう。というか、作品作りにおいて「できる限り誰も傷つけない」ということが重視される現代では、自分が何に傷つけられるのか、ということを知る機会が減りすぎているという気もする。人間は真に致命傷になりそうなものはちゃんと避けるものなので、もう少し受け手を信じてもいいのではないかと思うのだが──
いや、話が逸れてしまった。「R-157」に戻ろう。何が言いたいかと言うと、私は激しい葛藤の末、「R―157」を買わなかったのである。私個人は好きなグラビアアイドルを開陳し合う男子的文化圏からは遠く離れていたし、オカンに発見されるリスクを冒してまでそれを買う度胸はなかった。その後も私は、女性の純粋な「写真集」なるものを一冊も買っていない。そんな私が人生で唯一買った「写真集」と名の付くものは、『ホクトベガ 砂の女王よ永遠に~』という、なんと馬の写真集である。
ホクトベガという馬をみなさんはご存知だろうか。競馬ファンならば1993年のエリザベス女王杯、「ベガはベガでもホクトベガです!」という名実況を記憶している人は多いだろう(少なかったらスミマセン)。このレースの大本命は「ベガ」という、ややストリートファイターのボス感のある名前の牝馬だった(実際には星の名前から取られている)。ベガは新馬戦こそ2着に敗れたものの、そこから四連勝で桜花賞、オークスというクラシックレースを順調に制覇しており、秋華賞のなかった時代に「牝馬三冠」の三冠目とされていたエリザベス女王杯に出走した。つまりここを勝てば、当時ではメジロラモーヌ以来2頭目の牝馬三冠馬となるという状況だったのである。
ベガが注目を集める中、桜花賞5着、オークス6着と、悪くはないがすばらしいとも言えない走りに終始していたホクトベガは9番人気。ベガに対抗できるのは桜花賞、オークスともに2着だったユキノビジンか、前哨戦のローズステークスで強い勝ち方をしたスターバレリーナかどちらかだろうと思われていた。レース中、ホクトベガは中団につけたベガのさらに後方内側に位置取り、直線に入るとそのまま内からベガやノースフライトといった実力馬を差し切って勝利を収めた。しかし「これでやっとホクトベガは一流馬の仲間入り!」というわけにはいかず、エリザベス女王杯はフロック、つまりまぐれ勝ちと見られていた。そしてその後のホクトベガは実際にイマイチ伸び悩み、一時は障害レース転向の話も出たほどだった。
ホクトベガの真の伝説は地方交流重賞のダートレース、エンプレス杯から始まる(ちなみに競馬というと芝のレースを想像される方が多いかもしれないが、ダートという砂の上を走るレースもある。その世界最高峰のレースが有名なドバイワールドカップである)。このレースは大雨による超不良馬場で行われたが、早々に先頭に立ったホクトベガはそのまま脚色を落とすことなく伸びまくり、なんと二着アクアライデンに18馬身の差をつけて圧勝してしまう。他の馬のジョッキーが「前のレースの馬が残っているのだと思った」と言ってしまうほどの大差勝ちで、私はこれ以上の差がついたレースを知らない。有名な圧勝劇と言って私がぱっと思いつくのはナリタブライアンの菊花賞やサイレンススズカの金鯱賞だが、これらでも7馬身差。タップダンスシチーのジャパンカップやシンボリクリスエスの有馬記念でも9馬身差なので、ホクトベガの18馬身がどれだけ意味不明なものかわかるだろう。
これ以降、ホクトベガは芝のレースも使われたものの、やはりダートレースで無敵を誇った。川崎記念、フェブラリーステークス、帝王賞、南部杯、浦和記念といった大レースを圧勝しまくり、いつしか「砂の女王」と呼ばれるようになった。もう国内でホクトベガを打ち負かせるような馬は一頭もいなくなり、日本ダート界はどうしようもなくなった。格闘技好きの方に向けて例えるなら、昔の格闘技のPRIDEで言えばエメリヤーエンコ・ヒョードル、今のRIZINで言えばラジャブアリ・シェイドゥラエフのような存在だと思ってもらっていいだろう。そうしてホクトベガは97年、いよいよダートの世界最高峰ドバイワールドカップに出走することになる。
日本馬の夢といえば芝なら凱旋門賞で、ダートなら──当時は創設されてまだ二回目だったが──世界最高賞金を誇るドバイワールドカップである(ちなみに凱旋門賞はいまだ勝ちがないが、ドバイワールドカップの方は2011年にヴィクトワールピサ、2023年にウシュバテソーロが制している)。ホクトベガが世界でどれだけやれるのか、日本馬のレベルが今世界でどのぐらいのものなのか、日本中の競馬ファンがその挑戦を見守っていた。
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