2026.7.11
ホクトベガの悲劇──それでも競馬を愛するということ【人生競馬場 最終回】
競馬に感動してしまう自分を止めることができない
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しかし、ホクトベガはナド・アルシバ競馬場でのレース中に最終コーナーで転倒し、そのまま安楽死の処置を取られてしまうことになる。この悲劇に中学生だった私は衝撃を受けた。なんというか、やはり骨が折れたぐらいで安楽死、ということに納得がいかなかった。私が競馬を見始めてから、知っている馬が安楽死という結果になってしまったのはこれが始めてだった(その次がサイレンススズカということになってしまうのだが)。昨年もリバティアイランドという牝馬三冠馬が香港のクイーンエリザベス2世カップで競走中止、安楽死処分になってしまい、競馬ファンに激震が走ったのは記憶に新しいところである。
しかし、こうした処置は仕方のないことらしい。馬は400~600キロもある馬体を細い四本の脚で支えており、一本の脚が使えないとなると他の三本で体重を支えることになる。するとそちらに過度な負荷がかかって蹄葉炎という激痛を伴う炎症が起こりやすく、その症状が進むと自力歩行が不可能になる。馬は歩いていないと血液が全身に回らないため、その状態が続くと致命的な感染症を起こし、結局苦しんで死んでしまう可能性がきわめて高い。かつてテンポイントという大人気を誇った名馬が予後不良と診断されたが、日本中から「テンポイントを殺さないで」という電話が殺到し、オーナーが何とか生き延びさせようと手術に踏み切ったことがある。しかし結局は蹄葉炎を発症し、テンポイントは故障から42日後に死亡してしまった。馬の怪我というのはそれだけ恐ろしいものであるということが、競馬関係者はもちろん競馬ファンもわかっている。そんな中でサラブレッドを鞭打って全力疾走させ、しかも賭けの対象にしていると考えると、確かに道徳的な理由で競馬を好まない人がいる理由もわからないではない。
正直なところ、私もホクトベガの訃報に触れた時、「ちょっとこれはどうなんだ」と思った。そして発売された写真集を買い、何度も何度も眺めた。内容は詳しく覚えているとは言えないのだが、その中ではホクトベガの美しい写真だけではなく、関係者のホクトベガに対する深い愛も語られており、彼女がいかに大切にされていたかということがわかる作りになっていた。チョロい人間だと思われるかもしれないが、それを読んだ私は、競馬という文化はもはやなくならないものであり、サラブレッドはその文化の中で速く走ることを宿命づけられた上で生産されているのであり、関係者たちは何とかその馬をモノにしてやろうと全力を尽くしているのだ、ということを痛烈に感じた。そもそも、みんなに悲しんでもらえるような死を迎えられるサラブレッドはほんの一部であって、他のほとんどのサラブレッドは人知れず、寿命ではない形で世を去っていかざるをえない。走らないサラブレッドの受け皿はそれほど多くないのである(この状況を改善するためだと思われるが、ウオッカを担当した角居調教師などは引退馬のセカンドキャリア支援の活動を行っている)。
競馬というシステムが多くの問題をはらんでいることは確かだろう。当時、私はホクトベガの写真集を見て競馬に対する態度を保留したが、現在もそれは保留中である。ホクトベガのような悲劇の死を見るたびに考え込んでしまうが、私は少したつとやはりまた競馬を観ていた。そして真剣勝負を、血統のロマンを楽しんでいた。大人になってからは友人らと金を賭け、結果にはしゃいだり文句をつけたりしながらワイワイ盛り上がった。弱い馬の名前は覚えていないし、その馬がどうなったかなんて気にしなかった。勝手なものだと思うが、私たち競馬ファンは競馬の暗い部分にそれほど注意を向けない。それは競馬の主催側が当然その部分を見せようとしないからでもあるが、少し見えたとしてもそれはすぐに頭から締め出される。よほどそこに強く意識を集中しようとしない限り、私たちは考えるのが苦痛になるような問題を考え続けることができないのだ。
馬をめぐる人間の悲喜こもごものドラマやロマンは、それを知った私たちの「感情移入」を強烈に誘ってくる。競馬ファンは人間の夢を乗せて走るサラブレッドを擬人化して感動してしまう。もちろん、サラブレッドの走りそのものにも感動してしまう。その時、私たちはおそらく思考停止に陥り、自分の中で都合の良い物語化を行っている。あるいは物語化されたものをそのままに受け取っている。それが良いか悪いかはわからない。いや、たぶん悪いだろう。しかし、いちいちそんなことを考えていたらまともに生きていられないのが人間という生き物の性質であり、限界でもあるのだと思う。仮に競馬を「ダメ」だと判定し、その基準をあらゆる対象に適用した場合、「ダメ」なものは他にも無数に出てくる。おそらくそのすべての制限を守って生きていくことは不可能だろう。生活とは、社会とは、文化とは、生命とは、つねにグロテスクな犠牲とともにある。
私は今のところ、サラブレッドに、競馬に感動してしまう自分を止めることができない。ホクトベガのエンプレス杯に驚嘆し、またあんなレースを観てみたいと思う自分を止めることができない。いつかそれが変わる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。それはわからないが、こうした難題については自分の中でうまくバランスを取り続けるしかないのだろう。内山理名の写真集で話を始めた時はこんな展開にするつもりはなかったのだが、ホクトベガのドバイワールドカップ出走時のことを思い出しながら書いていると、どうしてもこういう形になってしまった。彼女の死は悲劇だったが、そのすばらしいレースはいつまでも色褪せずに残り続ける。みなさんには是非エンプレス杯を観て、ホクトベガなら世界に通用するかもしれないとワクワクした当時の競馬ファンの感覚を追体験してみてほしい。
さて、一年間にわたって書かせていただいたこの連載も、今回が最終回である。競馬エッセイと言えば寺山修司をはじめとする数々の著名人が書き記してきた種類のものだが、こうして自分も書いてみると──かなりおこがましい言い方かもしれないが──何か大きな歴史に接続されたような感じがする。昔の人が熱心に応援していた馬の子孫の走りを現代の私が見ることができる、寺山修司やその時代の人が語ったハイセイコーを私も今また語ることができる、何十年と歳の離れた人と同じ日本ダービーを観ることができる、そういった当たり前と言えば当たり前の事実が、人々の興味関心が細分化された現代にあってとても大きなものとして感じられてくる。競馬はすばらしい文化だと言い切れるものではないかもしれないが、多くの人の心をとらえ続けるものであることは間違いない。この連載を通じてみなさんにその楽しさの一端でも伝えられていたら、これほど嬉しいことはない。
(完)
佐川先生の次回作にご期待ください!!!
佐川恭一の傑作エッセイ集、大好評発売中!

あまりの面白さに一気読み!
受験生も、かつて受験生だった人も、
みんな読むべき異形の青春記。
——森見登美彦(京大卒小説家)
最高でした。
第15章で〈非リア王〉遠藤が現役で京大を落ちた時、
思わず「ヨッシャ!」ってなりました。
——小川哲(小説家・東大卒)
ものすごくキモくて、ありえないほど懐かしい。
——ベテランち(東大医学部YouTuber)
なぜ我々は〈学歴〉に囚われるのか?
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