2023.8.11
始まりはいつもカレー? 日本におけるインド料理の歴史をおさらい
「現地風の店」が出店すると、なぜこれほど日本人は喜ぶのか。
日本人が「異国の味」に求めているものはなんなのか。
博覧強記の料理人が、日本人の「舌」を形成する食文化に迫るエッセイ。
前回はアメリカ料理を取り上げました。
今回から、いよいよ稲田さんご自身の本丸「インド料理」編です。全5回にわたる、熱量あふれる考察をお楽しみください。
インド料理編① 日本のインド料理店を俯瞰する
今回からは日本におけるインド料理の歴史です。いつもだったら章ごとに過去から現代への順を追って解説するところですが、今回はあえて、まず最初に黎明期から現代に至る流れを一気に俯瞰するところから始めたいと思います。
なぜそうするかですが、日本におけるインド料理のスタイルは根本的に異なるものがいくつかあるからです。単にインド料理と言ってもどれを指すのか、そしてその全体像をまず掴んでおかないと、ちょっと混乱してしまいそうなので。
というわけで今回はまず概論です。始めていきましょう。
【黎明期】
日本における最初のインド料理店は、1949年創業の「ナイルレストラン」と言われています。カレーだけに限って言えば、新宿中村屋が戦前から喫茶部で提供していた「純印度式カリー」がそれに先行し、そしてその後1956年にはインドカレー専門店としての「デリー」が、1957年南インド料理店「アジャンタ」が創業、こういったところが黎明期の店と言えます。
驚いたことにこれらの店は全て、現在でも現役どころか、押しも押されもせぬ名店ばかり。ただしこれらの店は、その後から現在に至る爆発的なインド料理の普及の流れとは、明らかに一線を画しています。言わば一軒一軒があまりにも特別なレジェンド店なのです。
それもあってこの時代についてはこの後、特に詳しく触れることはないと思います。ですが各店それぞれ、ちょっと驚くようなロマンある歴史を持っています。機会があればぜひ、各自深掘りしてみてください。
【グローバルなインド料理の到来】
インドではもともと外食産業があまり発展していませんでした。宗教上の理由から、食べてよいものが厳格に決められている多くのインド人にとって、食事はその原則に則り、あくまで家庭で作られるものだったのです。
先に挙げたレジェンド店は、インド人が家庭で食べていた料理を日本人にも提供する、という形で始まった形がほとんどです。
そんなインドで本格的なレストランが現れ始めたのは1950年ごろから。それは概ねイギリスのレストランスタイルをインド料理に置き換えたもので、基本的に、欧米人が主なターゲットでした。
欧米人が好みそうな「焼いた肉」すなわちタンドール物や、「パン」すなわちナンやロティが積極的に提供され、カレーは肉をふんだんに使ったリッチで濃厚な味わいのものが中心でした。
それらは従来の伝統的なインド料理とは、最初から少し異なるものでした。いかにもローカルな特徴は抑えられ、外国人でもなるべく抵抗なく食べられる料理体系として新規に誕生したのです。今やインド料理の代表と目されているバターチキンカレーやタンドリーチキンも、そんなレストラン生まれの新しい料理です。
そしてそのことは同時に、国外にその業態を持ち出すことも比較的容易であることを意味しました。食べやすくゴージャスな新インド料理は、その後世界中に進出していきます。その進出先のひとつが日本でした。
1970年あたりから、そういう店がポツポツと日本にもでき始めました。ただしあくまで東京を主とする大都市に限った話です。
【高級店の時代】
そういうグローバルスタイルのインド料理店は、言うなればインドにおける外国人御用達のホテルレストランを、そのまま日本に持ち込んだものでした。すなわち高級店です。
その時代の、東京のあるインドレストランのメニューが手元にあります。丸い銀盆にカレーやナン、サイドディッシュなどが一通り並んだ一人前の「ターリーセット」が、物価換算すると現在の約8000円ほど。当然サービス料も付くでしょうし、そんなお店だからワインの一本も頼まないと格好が付きません。当時のフランス料理ほどではありませんが、2番手集団であるイタリア料理やアメリカ料理あたりとも肩を並べる格式であったことが見て取れます。少なくとも、庶民が日常的に気軽に使うような店ではありません。この店はおそらく、当時の最も高級なクラスの店だと思われますが、他の店も、普通にディナーを楽しもうと思えば安くとも3000〜4000円といったところです。
また、いかに欧米人にとっては比較的食べやすいとは言え、まだそれを普通の日本人が素直に受け入れられるような時代でもなかったはずです。おそらくですがそこに集うのは、外国人の接待であったり、一部のグルメな好事家がほとんどだったのではないでしょうか。そんな時代はバブル崩壊の頃まで続きます。