2023.7.14
そして「バル」だらけになった……スペインから導入されたあまりにも万能すぎる業態
「現地風の店」が出店すると、なぜこれほど日本人は喜ぶのか。
日本人が「異国の味」に求めているものはなんなのか。
博覧強記の料理人が、日本人の「舌」を形成する食文化に迫るエッセイ。
前回から続き、スペイン料理編の後編をお届けします。
スペイン料理②ニッポン・バル狂騒時代
2000年代以降、既に確固たる地位を築いていたイタリア料理に続けとばかりに、いくつかの外国料理が、その覇権争いに参戦してきました。この時代、紙媒体の「グルメ雑誌」は、今よりもいささか大きな影響力を持っていたと思います。それらは常に、新しいムーブメントを探し当てて喧伝する、重要な使命を負っていました。「フレンチの逆襲」「次に来るのは南米料理だ」などといった心躍る字句が並ぶ中、「今注目のスペインバル」というような記事は、ひときわ輝きを放っていました。
前回、日本におけるスペイン料理ブームの到来について、(脱線もしつつ)その要因に触れてきました。しかしそのブームの真に重要な部分とは、それが必ずしも「スペイン料理ブーム」ではなく、むしろ「バルブーム」とでも言うべきものだったことなのではないか、というのが、今回の主なテーマです。
2000年代のスペイン料理ブームの舞台は「バル」と呼ばれる業態でした。バルという、耳新しくもありながら簡潔で親しみやすいカタカナは、アルファベットで表記すれば何のことはない、「BAR」です。あえて直訳すれば「酒場」。スペインの人々は誰もが行きつけの酒場を持ち、仕事帰りにはそこに立ち寄って、ちょっとしたつまみと共にワインを楽しむ、それがBAR=バル。要するに、昔から日本にある「居酒屋」とよく似た文化です。
前回、1970年代のスペイン料理店のメニューが、今のそれとは全く異なるということに触れました。そこにはもちろん、当時の日本人に忖度した種々のアレンジという面もあったのでしょうが、決してそれだけではないとも思います。それはあくまでレストラン料理だったのです。言い換えるなら、その国の料理にさほど馴染みのない外国人を無難に接待することも可能な料理。
それに対して現代日本における主流のスペイン料理は、決してそういうものではなく、スペインの庶民の日常生活が日本に移植されたもの、と言えます。それがバルです。……いや、もう少し正確に言うと、それがバルでした。過去形です。なぜ過去形なのかはこの後徐々におわかりいただけると思います。
繰り返しますが、バルとは居酒屋です。そしてそれは単なる逐語訳にとどまるものではなく、バルはあまりにも居酒屋なのです。バルでは、タパス(小皿料理)と言われるちょっとしたつまみを、人々が各自気軽に注文してつまみます。それは決して「レストラン」ではありません。前菜・メイン・デザート、みたいなコース料理が暗黙の前提となるレストランは、多くの日本人にとって少々「荷が重い」ものでもありますが、バルにはそれがありません。日本人が慣れ親しんだ居酒屋そのものなのです。
イタリア料理編の時に、日本でカジュアルイタリアンが歓迎された理由の一つとして、それが(フランス料理などとは違い)居酒屋感覚でのオーダーが可能だったから、と書きました。それでもそこには一応、レストラン的なコース料理の構成が暗黙の了解としてうっすら残存していました。しかし、スペインバルにはそれすらありませんでした。少々極端な言い方をすれば、それは、チェーン居酒屋のフォーマットはそのままに、メニューコンテンツだけが「おしゃれな」外国料理に置き換わったものだったのです。
小皿にちんまりと盛られたタパスを、スペイン人がさらに細かく分けて複数人でシェアすることはあまりないのかもしれません。しかし日本人はそれすらもチェーン居酒屋的流儀で律儀にシェアしました。そうすれば更にいろいろな料理が楽しめます。「ちょっとずついろいろ」が大好きな日本人にとって、それは願ってもいない形態です。