2023.3.16
猫沢家は毎日が世紀末! 第12回 地獄のヴィザ更新から持ち上がる結婚話〜父のハルマゲドン事件
『パリ季記』の復刊に続き、12月には書き下ろしの『イオビエ』が発売されます。
2022年2月14日、コロナウイルスの終息が見えないなか、16年ぶりに猫沢さんは2匹の猫と共に再びフランスに渡りました。
遠く離れたからこそ見える日本、故郷の福島、そしていわゆる「普通」と一線を画していた家族の面々……。フランスと日本を結んで描くエッセイです。
前回は、猫沢さんの美的感覚に多大なる影響を与えた祖父との思い出が綴られました。
今回は、四半世紀前の猫沢家で巻き起こった結納騒動について。
第12回 地獄のヴィザ更新から持ち上がる結婚話〜父のハルマゲドン事件
シャルル・ド・ゴール空港発、羽田行き。私は彼と熱い抱擁を交わしたのち、19時10分発の機内へ乗り込むため、華麗にパスポートコントロールをすり抜けていく……はずだった。
「ちょ、ちょっと‼ ヴィザの期限が2月7日になってる‼」
「なんだって⁈」
ふとパスポートに貼られているヴィザの期限に目をやって青ざめた。な、なんてこったい……フランスで外国人が暮らすに当たって、何よりも大切なヴィザの更新を、よりによってふたりともすっかり忘れるなんて。去年の10月から始まった彼の家族問題や、移住初年度ならではの私の忙しさなど、振り返れば忘れても致し方ない状況ではあった。が! それにしてもだ。しかも、今回の日本行きは1月24日〜2月6日の予定で、なんと私は、ヴィザの期限である2月7日の1日前に辛くも帰りの便を予約していた。これが8日だったら……と、考えるだけで背筋が凍る。とはいえ、ひとまず私は日本に行かねばならなかった。今回の里帰りは、昨年出版した2冊の本のプロモーションが中心で、すでに2週間のスケジュールはびっしり組んでしまっていた。幸いなことにフランスでの社会登録や手続きは、もともと彼が担当していたのもあって、私がいない間もインターネットでできる更新手続きは進めてもらえそうだった。しかし、ヴィザを更新するにあたって必要な、昨年の仕事の履歴や請求に関する書類などは私でないと作れず、結果、2週間の滞在中、アポが終わって友人宅へ戻ると、朝方まで書類を作り、連日睡眠時間が3〜4時間というハードコアな東京デイズとなってしまった。
パリに戻ってからも、ヴィザ山登山は続いた。その後、ビバークなしで3週間も。私はまあ当然のこととしても、本来ならフランス人の彼が外国人の居住に関する手続きなどする必要はなく、私がいなかったら一生知らなくていいことだった。そうして、外国人のパートナーを持つフランス人は、この国に暮らす移民たちの苦労を知っていく。「なんなんだこの非効率的なサイトの構築は⁈」ヴィザ更新専用サイトにアクセスした彼が机を叩いて叫んだ。げに恐ろしきはヴィザ更新……普段は穏やかなアルパカ似の人をここまで怒らせるのがヴィザ更新の不可解かつ不条理なシステムだった。しかし、我々は突きつけられた条件《2022年度の仕事の履歴とその収入証明書、日本の銀行口座の1年分の利用明細書をフランス語に翻訳したもの、2023年度以降の事業計画書、フランスの出版社との出版契約書》総計52pにわたる書類をなんとか作り終え、期限内に提出することができた(更新時に求められる書類は、ヴィザの種類によってまちまち)。
それから数日、もぬけの殻になっていた時、彼が言った。「やっぱりさあ、結婚ヴィザに切り替えるの、いいんじゃないかと思って」。プロポーズなどという甘いシチュエーションではなく、このやりとりは、外国人パートナーを留めておきたいフランス人が、過去に幾度となく口にしてきた現実的なフレーズだった。そもそもこの国では、結婚というものが、パートナーや財産を守る切り札としての社会手続きという認識で、決して日本のブライダル誌にあるようなロマンチックなものとしては捉えられていないと感じる。もちろんフランスにだってロマンチックな感覚もある。しかし、それはあくまでも先に述べたことが前提でのドリームだ。私の場合、今回のヴィザ更新がうまくいけば、あと3年、フランスでの滞在許可が下りる。しかし、また3年後には今回のように恐ろしく大変なヴィザ更新をしなくてはいけなくなる。ヴィザ更新が大変だからって、さすがにその理由だけで結婚話が出たわけじゃない。そもそも今回の移住は、結婚も視野に入れた永住目的なわけだから、以前からごく自然に結婚についての協議は重ねてきた。
それに猫沢家育ちの私が、男性に対する幻想だとか、結婚に対する甘いドリームなど見るはずもなく、むしろ〝結婚とは恐ろしい家族を作る間違った初めの一歩〟というネガティヴ極まりないイメージでしかなかったため、結婚に対しては誰よりも冷めた視線で俯瞰していた。もちろん今の彼と、となれば異存はない。私とは真逆の、ごく普通の家庭で常識的に育てられた彼は、私にごっそり欠けている普通の幸せを存分に与えてくれる人だから。しかし遠い記憶の彼方から、不穏な気配が立ち込める。そう、世紀末のあの忌まわしき思い出が。