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猫沢家に伝わる風呂好きDNA 第10回 おじいちゃんの腐ったみかん風呂〜ニッポン文化OMOTENASHI大使の不運な過去

MOTTAINAI精神が生み出した〝腐ったみかん風呂〟

「あー……ごめんねえ。今夜は腐ったみかん風呂だから。カビが生えたみかん、おじいちゃんが捨てるのもったいないから、お風呂に入れてみたんだってー」

〝今夜は腐ったみかん風呂だから″
〝今夜は腐ったみかん風呂だから″
〝今夜は腐ったみかん風呂だから″……

 母の返答のどこをとっても尋常ではなかったが、まるで当たり前のことのように言い放たれたこのワンフレーズが、頭の中でリフレインした。

「ちょ、ちょっと! なんで入る前に言ってくれなかったの?!」

 金切声で叫ぶ私に、母は、

「もー……しょうがないじゃーん。おじいちゃんが入れちゃったんだから。箱の中で腐ってたみかんがもったいなくて、試してみたかったんだって。アンタもごちゃごちゃ言ってないで、早くあったまりなさい!」

と、まったくとんちんかんな返事をした。

 ハ?! こんなんであったまれるかーーーーーーーい!

と、思いっきりツッコミを入れていた私。しかし! 誰よりも当時の私自身にツッコミを入れたい。なぜそんな恐ろしげな風呂に素直に入ったのかを。そもそも元をたどれば、腐ったみかん風呂の真実を知りながら、その夜すでに入浴を終えていた母をはじめ、一家の誰にも〝腐ったみかん風呂を掃除して風呂を入れ直す〟という発想がなかったのか、まったくもってミステリーだ。または風呂に入らないという選択肢もあったはずなのに、皆が皆、眉間に皺を寄せながらも入っている。しかもそのうちのひとりが私ではないか……!
 そうなのだ。これが猫沢家の間違った方向性でのふところの大きさなのだ。確かに腐ったみかん風呂に入ったって死にやしない。この家で日々繰り広げられるガス爆発や、ややもすると命に関わるような、その他の事件に比べたら屁でもないっていうトチ狂った忍耐度。いや、忍耐などという意識はなかった。特にまだ子供だった私や弟たちにとっては、これが知っている唯一の日常だったから。

 ガス爆発と同じく、この腐ったみかん風呂も祖父が気に入ったのか、母のセリフと同じく3回リフレインし、なぜか私もぶうぶう言いながらも3回入った。3回繰り返されたのは、先に述べた猫沢家の間違った懐の大きさにも由来していただろうが、この件に関して裏で祖父を助長していたのは母だったのではと、私は疑惑の目を向ける。

「あのお風呂、意外とお肌すべすべになるよね」

という、母の聞き捨てならないセリフが今も耳を離れない(白目)。

 ……ハッと我に返ると、時代は2023年の元旦、パリの浴室だった。複雑な処方のハーブバスソルトの香りに包まれて、スピーカーからはロマンチックな音楽が静かに流れていた。

「はーーー……これ(入浴)は、本当に素晴らしいね」

 つくづくとため息を漏らしながら彼が言ったその一言で、私のニッポン文化OMOTENASHI大使としての役目は無事に終えたが、その裏には体を張った?不運な過去があったことは、まだ家族問題の最中さなかにいる彼には話していない。

次回は2月16日(木)公開予定です。どうぞお楽しみに!

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猫沢エミ

ミュージシャン、文筆家。2002年に渡仏、07年までパリに住んだのち帰国。07年より10年間、フランス文化に特化したフリーペーパー≪BONZOUR JAPON≫の編集長を務める。超実践型フランス語教室≪にゃんフラ≫主宰。著書に料理レシピエッセイ『ねこしき 哀しくてもおなかは空くし、明日はちゃんとやってくる。』『猫と生きる。』など。
2022年2月に2匹の猫とともにふたたび渡仏、パリに居を構える。
9月、一度目のパリ在住期を綴った『パリ季記 フランスでひとり+1匹暮らし』が16年ぶりに復刊(扶桑社)。また、12月9日には最新刊、愛猫イオの物語『イオビエ』(TAC出版)が発売されたばかり。

Instagram:@necozawaemi

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