2022.4.21
祖父とゴッホとフランスと―16年ぶりのパリで故郷の家族を思う 第1回 リヴォリ通りの呉服店
”母の虚言では?”疑惑
母は、わりとしょっちゅう嘘をついた。いとも簡単に。しかし大抵、それは見え透いた幼稚な策略だったり、自分のヘマを隠すために使われたりするもので、こうした親戚の又聞きヒストリーを脚色しても、彼女にはなんの得にもならない。したがって、この話はあながち作り話でもないのだろうという結論が、のちにふたりの弟たちとの会話で導き出された。
「うちはフランスと縁があるのねえ」母は、まるでそのまなこにエッフェル塔でも映っているかのような表情で、ウットリとつぶやいた。それを聞いた私は「なにがフランスと縁だよ……」と、内心失笑していた。
確かに母はフランス好きだった。若い頃から油彩画を趣味にして、よく絵も描いていた。ときどき、阿武隈川に架けられた古い赤レンガの鉄橋が見える川辺まで私たちを連れて写生をしに行ったりもした。彼女の寝室には、若い頃にお給料を貯めて買ったというゴッホの《麦畑》の模写がかけられていて、ゴッホの素晴らしさを熱く語っていた。「ゴッホの色味が好きよ。やっぱりフランス人の感覚は、どこか素敵なのよねえ」。いえ!ゴッホ、オランダ人なんで!(笑)。確かにフランスで数々の名画を生み出してますけど……という具合に、母のフランス好きは、かなり曖昧な知識に基づいた〝フランス憧れ第一世代〟枠内ではあったのだけど。
ご存じのように、ゴッホは精神障害を抱えた苦難の人生を歩んだ人だが、彼の誕生日、3月30日は祖父の誕生日と同じで、それがずっと気になっていた。というのも、祖父もかなりの精神障害があり、それはゴッホと誕生日が一緒だからなんじゃないかっていうまことしやかな疑念を、子どもの頃から持っていたから。祖父は、もともと兄が継ぐ予定だった家督を兄の早逝により継いだ人で、生まれつき精神のバランスが危うい人だった。そこに、太平洋戦争の出兵が重なって、完全に一線を超えてしまった。とはいえ、孫の私に見せていた彼の奇行は天真爛漫で、どちらかといえば人の笑いを誘う罪のないものが多かった。祖父は、ゴッホのように絵を描いたりはしなかったが、書道が趣味で字は書いていた。呉服店を営んでいると、展示会や売り出しで何かと筆を使って書く機会が多く、そのお役はいつも祖父に回ってくるのだった。それは、祖父の唯一の仕事だったと言えるかもしれない。