よみタイ

ふと、20年振りに誰かに髪を切ってもらいたくなったのだ。美容大好きおじさん、ドキドキの1000円カットへ!

 ところが、いざ店の前まで来ると、なかなか入口のドアに手をかけることができない。額にイヤな脂汗が滲み始める。やはり無理か。
 いや、ここは思考を変えよう。アレだ、どこにもトイレがなくて、偶然通りかかったパチンコ屋のトイレを借りて事なきを得たときと同じ気持ちになろう。
 一銭も使わずに帰るのは悪い気がして、恩返しのつもりで1000円だけパチンコを打つ。あのときと同じ思考になればいい。入店してすぐに「トイレ貸してください!」と言えばいいのだ。トイレを借りた手前、髪も切って行かなきゃ悪いかなという気持ちで散髪を頼めばいい。

 頭の中で何度もシミュレーションを繰り返したのち、覚悟を決めて入店するも、待合席に座っている他の客たちの怪訝そうな顔を見た途端、思考が冷静になった。来店と同時に開口一番「トイレ貸してください!」と宣言するヤツなんてヤバすぎる。
「散髪お願いします……」とか細い声でお願いすると、「こちらでチケットを買ってお待ちくださいね」と店員に促される。チケット? いつから理容院はラーメン屋の食券システムと同じになったんだ。時代の流れを感じずにはいられない。

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 店内に座席は3つ、3名の理容師が仕事に精を出している。井上順によく似た親しみと清潔感が同居したナイスミドルのおっちゃん。もう一人は「忍たま乱太郎」に出てくる食堂のおばちゃんによく似た小太りの中年女性。そして、両腕に派手なタトゥーが入っているカメレオンによく似た顔の強面の兄ちゃん。
「1000円カット」では担当を指名することができないので、運を天に任せるしかない。こちとら20 年振りに髪を切ってもらうのだから、できることなら歳が近い中年店員のどちらかがいい。そう願う私に「こちらへどうぞ」とタトゥーの兄ちゃんが手招きをする。いいだろう。お前さんの両腕に彫られた立派な龍が飾りもんじゃないかどうか、この俺が確かめてやる。
 
 椅子に深く腰かけ、目の前の大きな鏡に映る自分の姿をマジマジと見つめる。なぜだろう。場の雰囲気にやられているのか、家の鏡に映る自分よりもややブサイクに見える。
「今日はどうされますか?」という20 年振りの問いかけにドキマギしてしまい、「明日、友達の結婚式があるので、綺麗な坊主頭に整えたいんです。切る量が少なくてどうもすみません……」と、小さな嘘とよくわからない謝罪を口にしてしまう。
「髪の長さは1ミリでよろしいですか?」
「是非、そのようにお願い致します」
「生え際はカミソリで整えさせてもらってもいいですか?」
「是非、そのようにお願い致します」
 あまりの緊張で、問診に対する受け答えが貴族のような雅なものになる私。

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爪切男

つめ・きりお●作家。1979年生まれ、香川県出身。
2018年『死にたい夜にかぎって』(扶桑社)にてデビュー。同作が賀来賢人主演でドラマ化されるなど話題を集める。21年2月から『もはや僕は人間じゃない』(中央公論新社)、『働きアリに花束を』(扶桑社)、『クラスメイトの女子、全員好きでした』(集英社)とデビュー2作目から3社横断3か月連続刊行され話題に。
最新エッセイ『きょうも延長ナリ』(扶桑社)発売中!

公式ツイッター@tsumekiriman
(撮影/江森丈晃)

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