よみタイ

メガネ屋嫌いのおじさん、ひとりでメガネを買いに行く

 その日から一か月にわたり、私は今まで以上に生活の見直しに取り組んだ。規則正しい生活リズムと睡眠時間、バランスの取れた食事に十分な入浴時間、朝夕の適度な運動、部屋の換気、化粧水だけではなく、乳液やパックなどのスキンケアも今まで以上に入念に行うようになった。
 そして、生活面だけではなく、ファッションに関しても見直しを図ることに。よれよれのTシャツにおんぼろジーンズ、足元は年がら年中サンダル履きという今までのスタイルにサヨナラを。こまめな洗濯を心がけ、常に清潔な衣服に袖を通すようにする。加齢臭対策もバッチリだ。
 私の頑張りを恋人はただ黙って見守っているだけだった。これはあれだ。映画「ロッキー」で、愛するエイドリアンの言葉で自分を奮い立たせるロッキーそのものじゃないか。やれる、俺はやれるぞ、俺は必ず美容と健康のロッキーになってみせる。

 そしていよいよ決戦のときが来た。
 私は近所の駅前商店街にあるちょっと洒落た感じのメガネ屋へと単身乗り込んだ。途中までついて行こうかという彼女の申し出を断り「君は家で待ってなさい」と優しい言葉をかける。私が今日までやってこれたのは、愛する彼女の存在があってこそである。

〝自信〟という衣を身にまとい、意を決して店内へ。いつもなら一刻も早くこの場を立ち去りたい一心で、適当にフレームを選んでカウンターへと駆け寄るところだが、今の私は違う。何度も試着を繰り返し、自分に合う形、質感のフレームを慎重に選択。ハンカチ片手に汗だくで受けていた視力検査も涼しい顔でクリアしてみせる。
 ああ、今日はとってもいい日だ。メガネを買い替えるのに今日ほど相応しい日はないんじゃないかとまで思えてくる。
 
 約30分後、新しいメガネがいよいよ完成となった。メガネの微調整をしようと女性店員が近づいてくる。ピンクのメタルフレームのメガネがよく似合うキュートな女の子だ。さあ、来い、もう何も怖くないぞ。私は美しい人間ではない。でも恥ずかしい人間ではないはずだ。私が歩んできた日々がそれを証明している。

「どうもありがとうございます」と丁寧にあいさつをして、新しいメガネを装着して店の外へと足を踏み出す。メガネを新調したという物理的なこともあるだろうが、いつもより街の景色が輝いて見える気がする。視線のその先に愛する恋人がいた。家で待つようにとあれほど言ったのに、心配で様子を見に来てくれたみたいだ。

「割とへっちゃらだったよ。もう一個ぐらい買えばよかったな」

 私の報告を聞き、にっこりと微笑む彼女を見て、私はさらに得意げに続ける。

「自分に合ったメガネをかけると視界も良くなるし、何より疲れにくくなるんだって。そうすることで余計なストレスがなくなって肌艶も良くなるらしいよ。視力が美容にもいいなんてびっくりだよね」
「……」
「……ん?」
「そんな知識誰に聞いたのかなぁ? あのツインテールの女の店員さんとやけに仲良く話し込んでたよねぇ。ヘラヘラしてたねぇ……私、ずっと見てたんだよ……」

 恐ろしい覇気をまとった彼女がじわじわと近づいてくる。これから〝恋人の距離〟で長くありがたいお説教が始まりそうだ。私の額にはやっぱり嫌な汗が滲み始めるのであった。

(イラスト/山田参助)
(イラスト/山田参助)

当連載は毎月第2、第4日曜更新です。次回は2月26日(日)21時配信予定です。お楽しみに!

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爪切男

つめ・きりお●作家。1979年生まれ、香川県出身。
2018年『死にたい夜にかぎって』(扶桑社)にてデビュー。同作が賀来賢人主演でドラマ化されるなど話題を集める。21年2月から『もはや僕は人間じゃない』(中央公論新社)、『働きアリに花束を』(扶桑社)、『クラスメイトの女子、全員好きでした』(集英社)とデビュー2作目から3社横断3か月連続刊行され話題に。
最新エッセイ『きょうも延長ナリ』(扶桑社)発売中!

公式ツイッター@tsumekiriman
(撮影/江森丈晃)

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